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書評/『「反核」愚問 ――日本人への遺言・最終章』(李白社。発売=徳間書店日下公人)/
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    宮崎正弘/書評
    やっぱり世界の常識は日本の非常識なのだ
    戦争とは武力戦だけではなく、経済・情報・文明・思想戦なのだ

    日下氏の最新作である。いつもユーモラスに、しかし大胆な提言をされる氏の著作には独特の雰囲気が漂っていて、深刻な問題になぜか楽天的な処方箋が付帯し、多くの日本人が安心するという『解毒剤』の役目を担っている。
    本人も自ら認めているように「日下サーカス」の公演である。
    いつも氏に会うとニコニコしていて、いきなり、いささかの毒気を含む言葉ではなく、ユニークな譬喩を発信される。他人に評者(宮崎)を紹介されるときは、「この人は一人で新聞を発行している」とか。どうやら氏は、小紙の愛読者でもあるらしい。
    さて本書での主要テーマは日本の核武装である。
    氏の認識では「世界の常識」は「日本の非常識」となる。
    「国家間における『戦争』はなにも武力戦だけではなくいということです。経済戦、情報戦、文明戦、思想戦・・・とどれもが戦争なのです。それが世界の常識です」(200p)
    したがって国家安全保障をつきつけて考えれば、アメリカの核が最終的に究極的に日本を防衛するというテーゼは成り立たないから、原則論から言えば、日本は独自の核武装をする必要があると日下氏は説く。
    米国が日本の核武装を恐れるのは、いずれ広島・長崎の報復をされるという恐怖心からだが、もうひとつは日米の「同盟関係を解消したら・・・・・・アメリカは日本という『キャッシュディスペンサー』を失っていまします。これまでのように経済面でのゆすりたかりが出来なくなる。これから経済・金融面で逼迫していくはずのアメリカにとってはそれがいちばん痛いのです」(93p)。
    日下氏は十年、いや二十年ほど前から核武装論者だが、いまや独自に開発するより「拾ってくる」方法もあると、ドキッとなるような提言をされている箇所は驚かされる。具体的な方法は本書にあたってもらうしかないが、これも評者がことある毎に言ってきたように、「インドかパキスタンから累積債権放棄を条件に買えば宜しい」というアイディアに繋がる(拙著『日本が在日米軍を買収し、第七艦隊を吸収合併する日』、ビジネス社参照)。
    なぜなら核兵器は四、五年から十年でメインテナンスの必要性があるため、いちど「寿命」を迎え、なかの核物質を取り出して、ミサイルの最新型に入れ換える必要がある。米国もロシアも、そうやって核戦力を維持してきたが、その維持管理費用が膨大であるために、お互いが核兵器削減に応じているわけだ。ということは中国とて260発と想定される核ミサイルの更新をしていることになる。

    ▲「日本の核武装」という選択

    日本の場合、よく言われた「核シェアリング」という方法は、効率的ではないうえ最終的なボタンは米国が握る。従って日本の自立自存、自主防衛には繋がらず、それなら最終的選択肢は何かと言えば日本独自の核武装である。
    日下氏も、伊藤貫氏が主唱したように、最も効率よき手段は潜水艦に核装備の巡航ミサイルを搭載し、報復力を示すことによって抑止力となるとされる。
    じつは、この「海上核武装」という選択肢は永井陽之助氏のアイディアで、当時(昭和42年)、重いテープレコーダーとカメラを抱えて北海道から転任してきたばかりの永井教授を東工大に訪ねたとき、うかがった。同席は山浦嘉久氏(現在『月刊日本』編集委員)だった。
    永井氏が公表される意思がないので、早稲田大学国防部。森田必勝名義で、世間に発表した経緯がある(森田必勝遺稿集『わが思想と行動』<日新報道。絶版>を参照)。

    いずれにしても、国際情勢は奇々怪々、日々流動しているが、ものごとの本質を見失っては、平和ぼけのお花畑はまだまだ続く。
    日下氏は言う。
    「日本人は『平和』がノーマルな状態で、『戦争』はアブノーマルな状態だと思っているけれども、欧米人はそれとは逆に考えているということです。彼らは『戦争』こそがノーマルな状態で、『平和』はアブノーマルだと感じています」(32p)
    そうだ。だから本書は『「反核」愚問』というタイトルなのだ。

    posted by: samu | 書評 | 09:10 | - | - | - | - |
    書評/『偽りの報道』(ワック)/長谷川煕
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      書評/宮崎正弘

       

      朝日の内側にいた人々が朝日批判の先頭に乗り出した
      朝日新聞は偽善と欺瞞の伏魔殿、その正体はいったい何か


      評者(宮崎)は朝日新聞を読んでいない。かれこれ四十年以上になる。
      学生時代は毎日読んでいたし、そもそも評者は朝夕、朝日新聞を配達し、集金し、拡張まで行って学資を得ていた。文芸時評は林房雄が書いていたし、左傾していたとはいえ、まだ良心があった。
      大学入試に朝日からの出典が多いと聞いていたので、日本でいちばん良い新聞と思っていたが、だんだん論調への疑問が生じ、いつのまにか「何を書いているのだろう?この新聞は」と憤る日々が続いた。三年後に、同紙が日本でいちばん悪質な新聞と分かり、それからしばらくは朝日新聞批判も展開していた。
      しかし批判も心臓に悪いうえ、精神衛生上、良くない。だから突然、朝日購読を止めた。別に朝日新聞を読まなくても、何を書いているかは産経を読んでいれば大枠が掴めるし、毎週の『週刊新潮』のコラムで高山正之氏の朝日批判や『正論』『WILL』『hanada』を読んでいれば、まとめて朝日の遣り方が了解できる。
      今起きていることも小川榮太?氏らの健筆ぶりを見ていると了解できることである。
      以前の朝日批判の急先鋒と言えば、『諸君!』と『週刊文春』だったが、前者は休刊、後者は朝日と共闘を組むようになって昔の面影はない。
      朝日新聞を毎日読まなくても、朝日の先行きは予測できる。
      同紙は社内クーデターでも起こって、いきなり保守に転向し、産経の右を走るか、それが出来なければ倒産するしかないだろう。いや、外国資本に買収されるかもしれない。アメリカの主要メディアを豪のルパート・マードックや、中国系資産家や、メキシコの財閥が代理人を駆使して買収したように。
      そこで評者は、『朝日新聞のなくなる日』(2009年11月、ワック)を書いた。よく売れたけれども、もう絶版になった。
      言いたいことはSNSの発達が、一方的な、身勝手な主張伝達という大所高所のメディアの在り方を変質させ、異なった意見が、主要メディアをバイパスして世論を形成してゆくだろうという予測だった。

      事実、その通りになった。
      米国ではトランプが当選し、欧州のほぼ全域でリベラルメディアの主張と反対の政治的動きが主流となりつつある。
      さて本書である。
      著者の長谷川氏は朝日の内側にいた人で、永栄潔氏と同様に朝日批判の先頭に乗り出した。その偽善と欺瞞の伏魔殿、その正体はいったい何かを内側から鋭利に抉ったのが本書で、「安倍疑惑事件は冤罪」「安倍首相は報道被害者」「夜郎自大の自画自賛」「陥穽に嵌った朝日記者の盲点」「キャンペーンの歪曲性」など、小見出しを見ただけでも、その批判の激しさが伝わってくる。
       

      posted by: samu | 書評 | 09:48 | - | - | - | - |
      書評/『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』(PHP新書)石 平
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        宮崎正弘/書評


        石 平『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』(PHP新書)
        福島香織『習近平王朝の危険な野望』(さくら舎)
        楊 海英『「中国」という神話 ――習近平「偉大なる中華民族」の』嘘』(文春新書)

        ////////////////////////////////////////////////////////////////

        日本は中国経由で仏教を輸入したが同時に儒学も入ってきた
        ところが仏教を日本化して「脱中華」の基礎として儒学に深い関心を抱かなかった


        石 平『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』(PHP新書)
        @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

        石平氏はまるで日本語を喋れないままに日本に留学してきた。神戸のレストランでアルバイトをしながら、ときに書店へ行くと、孔孟から韓非子、朱子学と漢著の翻訳が本棚に並んでいたのを見て驚いた。
        考えてみれば、日本の読書人はおそらく世界一パースペクティブが広い。マルクス・レーニン全集があるかと思えば、ニーチェ、ヤスパース、ショーペンハウエルからアンナ・ハーレントまで、マルクーゼからヴィトゲンシュタインの翻訳もでている。
        本国フランスにはないのに、サルトル全集がある。いったいどういう国か?
        トランプ大統領が誕生すれば30冊を超えるトランプ本がならび、大河ドラマが西?隆盛になると百冊をこえる類書が書店で平積みとなった
        李登輝閣下はかねて、「日本語の翻訳により知識を拡げ教養を高めることが出来た」と述懐されるが、日清戦争ののち、夥しい留学生が日本にきて、日本語を通じてルソー、サミエルソンや、デカルト、カントを知った。つまり日本はあらゆる思想、哲学、文学を翻訳し、咀嚼し、そこから独自の思想を形成してきた。
        その日本にやってきた石平氏は北京大学で哲学を学び、成都で哲学の教鞭を執っていた。ゆえに日本の思想史に甚大な興味を抱くのは自然の流れ、そしてある日、気がつくのだ。
        「不可解な矛盾」に突き当たった。
        「江戸期以前の時代では、日本の代表的な思想家はほとんど仏教の世界の人間であるのに対し、江戸期に入ってからの代表的な思想家はほとんど儒学者だった」
        「えっ」を思わず声をあげた。こういう見立てがあるのか、というのが第一の感想だった。
        石平氏は「聖徳太子は仏教を国教にまでしたのは、中華から独立するため」であり、日本史は仏教を日本化することによって日本文明を独自なものとしたが、江戸時代には逆に儒教を官学の基礎においた。
        その?川時代の儒学はと言えば、じつは朱子学であり、中国の儒学とは似ても似つかぬもので、他方で本居宣長など国学の台頭を生んだ。
        いま紹介したのは大雑把なまとめだが、石さんは本書において、その経緯を詳細に論じている。
        紆余曲折をへて日本は脱中華の思想を構築し、文明の独立自尊を守り抜いた、というのが本書の骨子である。

        日本は仏教と儒学をほぼ同時に輸入するも、仏教を日本化して脱中華文明に基礎とした。
        ところが、漢学儒学には深い関心も寄せず、やがて遣唐使を廃止した。
        仏教は最澄と空海によって絶頂を極めて、以後、哲学的には衰退してゆく。そしてこの時代に『古事記』『日本書紀』が書かれ、『源氏物語』が書かれた。
        「家康が天下統一したあと、推し進めたもう一つの仏教対策は、全国に『寺請制度(檀家制度)』を整えることだった」(136p)
        つまり住居移転や結婚、旅行など檀那寺が発行する「寺請証文」が必要とされ、それは寺院の収入を安定させたものの、実質的に「葬式仏教」となってしまった。つまり「仏教は国家体制と政治権力にとって、無害にして有益なものとなっていった。(中略)思想史的にいえば、まさにこのプロセスにおいて、日本の仏教は思想としての創造力と影響力を失う」
        反面、「幕府による推奨政策の結果、『蔵入り』から掘り出された儒教が台頭し、仏教に変わってこの時代の思想とイデオロギーの主役の座を占める」。
        つまり「近世に入ってからおきた、日本思想史上の最大の変化」(142p)だという。

        だが儒教は官学でしかなく、「昼は朱子学、夜は陽明学」という佐藤一齋らが象徴するように官学と併行して日本では陽明学が読み込まれた。サムライの美意識に適合したからだろう。
        市井では本居宣長に代表される国学の意気軒昂たる復活があり、江戸前期には山鹿素行の『中朝事実』がでて、水戸学への驀進が始まる。これが『日本の思想』の中軸となる。
        「西?隆盛は日本の思想である」と江藤淳は書いた(『南洲残影』)。
        こう考えてきた日本の読書人からすれば、本書で展開されている石平氏の斬新な視点には注目すべき点が多い。

        とりわけ石平氏の山鹿素行論は、従来の保守陣営の解釈とは趣きが異なり、次のような描き方となる。
        「鎌倉時代末期の日本の神道思想の確立において、外来宗教の仏教に対する日本神道の優位性が主張された(中略)。山鹿素行は、天孫降臨以来の皇統と神道を中核とする日本の伝統に基づき、中国儒教に対する日本の優位性を協調して見せた。(中略)中国古来の『華夷秩序』の世界観を正反対に転倒させたのである」(216p)。
        江戸中期になると国学が日本の思想界を席巻し、「真淵は『日本の古道』を絶賛して、儒教と中国の『聖人』たちの欺瞞性を暴いた。そして宣長は、日本の精神と思想の世界から『漢意』(すなわち中華)というものを、きれいさっぱり洗い去ることによってこそ、日本は日本本来のすばらしさを取り戻すのだと説いた」(217p)。
        ともかく脱中華が日本の独自の文化圏形成の原動力だったのである。

        ◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇◇
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
        書評

        中国を動かすトップセブンの「知られざる素顔」
        軍を纏めきっていない習近平の空虚な野望を何が埋めるか


        福島香織『習近平王朝の危険な野望』(さくら舎)
        @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

        習近平独裁体制が仮に成立したとみると、中国は一貫して米国に伍せる軍事強国を目指し、政治、経済、軍事の世界一を狙っていることなる。
        夢想なのか、砂漠の蜃気楼か、習近平の空虚にみえる野望は無謀であり、達成は不可能ではあろうが、習近平がそれを目指しての暴走を開始している以上、世界的危機はますます深まっていくのである。
        習近平はそれほど鋭角的な政治センスがあるとは考えにくい。したがって誰か軍師がいるはずである。
        江沢民には曽慶紅という軍事がいた。また経済は朱容基首相にまかせておけば良かった。胡錦涛には共青団という強力な支持母体があり、長老達が比較的よく胡錦涛の改革的な政策を理解し、また温家宝首相とは絶妙なコンビが組めた。
        ところが習近平は五月蝿い長老たちを悉く敵に回し、拾い上げてくれた恩のある江沢民、曽慶紅を袖にして、あまつさえ連立を組むべき共青団とは露骨なほどの敵対関係に陥っている。
        経済を主導する李克強首相から政策決定権を採り上げ、次期後継者と見られる孫政才を葬り、胡春華をいじめ抜いている。共青団の次期ホープは王洋と言えるかもしれない。
        となると、頼りとするべきは太子党が、これは「党」というより友人達の環(リンク)でしかなく血路を開いてでも一緒に闘うという強靱な団結力にかける。いざという時には頼りにならず、また兄貴分の劉源(劉少奇の息子)は、習のもとを去った。
        軍は完全に習近平に面従腹背。軍幹部に抜擢された高級軍人等は李作成など少数の例外をのぞいて実戦経験もない。

        となると、前期に一番信頼を置いて頼りにした王岐山が定年で引退してしまったため、習の番頭格は誰かといえば、栗戦書になる。
        反腐敗キャンペーンを担う趙樂際は、完全なイエスマン。わかりやすく言えば茶坊主であり、修羅場を乗り切る政治力は稀薄と見られている。
        ところが福島さんによれば、この栗戦書にしても、習近平は全幅の信頼を置いていないというのだから驚きである。
        理由は習が嫌う共青団の大物、李建国を失脚させようとしたとき、栗戦書が止めに入ったからだという。なぜなら栗にとって李建国は恩人であり、「義理人情」を、出世より優先させたからだ。
        習近平は、自分を総書記に抜擢してくれた江沢民、曽慶紅の子分達を一斉に失脚させて権力を構築した、いってみれば忘恩の徒だが、栗戦書は頑なに過去に世話になった先輩を守り抜くために「猛然と抵抗した」というのだ。

        また福島さんは習政権二期目にはっても軍の粛清はまだ続くと予想する。
        「軍の汚職摘発をこれまで以上に強化するつもり」だから「軍内部の粛清は」これからも、「吹き荒れる」と予測する。
        なかでも習が頼りとするのは張又峡で、父親同士が陝西省、甘粛省の戦線で一緒に戦った経験があり、「張ファミリーと習近平は家族ぐるみの付き合いがある」からだ。
        次のお気に入りは苗華(習の福建省時代、第三十一集団のトップだった)。李作成も習のお気に入り、かれは中越戦争で軍勳がある。
        しかしいずれにしても、こうした依怙贔屓による軍高層部の身勝手と思われる人事は、軍内部に深刻な不満の嵐を惹起させており、旧瀋陽軍区の不気味な動きや、度重なる暗殺未遂が、そうした事実を物語っている。

        本書で、もうひとつ注目したのは、習近平が展開している「人権派弁護士」への弾圧である。その動機である。
        これまでも人権、民主活動家の大量拘束、拷問はあったし、ノーベル平和賞の劉暁波に対しての苛烈きわまる弾圧は西側から人権無視、非民主の独裁と批判されてきた。
        ところが200名を超える人権弁護士を逮捕拘束した習は、ほとんどを勾留したまま、テントしているのである。
        つまり「2015年のマクロ経済政策の失敗あたりから、明確に潜在的な敵が人民であるという認識を持つようになった。そして、その人民が人権派弁護士に象徴される知識人層と結びつくことを習近平は最も警戒していた。ただの不満を抱えたバラバラの人民を『反乱軍』に統率できる宋江のようなリーダーの登場を恐れていた。もっとも警戒されるのは弁護士である。なぜなら、台湾で国民党を破って初の台湾人による政権を打ち立てたのは元人権派弁護士の陳水扁だからだ。弁護士が国の指導者になった例を中国は身近でみてきたのだ」(200p)
        ちなみに宋江は山賊、荒くれ、愚連隊がこもった梁山泊でめきめきと指導力を発揮した水滸伝の主人公である。
        なるほど中国人のDNAはちっとも変わらないということである。
        ◎◎◎


        歴史始まって以来、中国と内陸アジアは何回も衝突しづづけてきた
        内陸アジアの動静は中華の地政学上の運命を死活的に左右してきた。


        楊海英『「中国」という神話――習近平「偉大なる中華民族」の』嘘』(文春新書)
        @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

        始めから終わりまで、膝を叩いて納得できる「真実の中国史」である。日本人の一般読者の既成概念からみれば、真逆の真実が語られている。
        中国の軍事力の脅威は日増しに高まっているが、楊海英教授はまず、その軍事力は内陸アジアに向かっており、「強国」イメージの習近平体制がかかえる最大のアキレス腱は、ウィグル、南モンゴル、チベットなどの内陸部である、と喝破する。
        「歴史始まって以来、中国と内陸アジアは衝突しつづけてきた。そして、内陸アジアの動静は中華の運命を左右してきた。中国にとって、内陸アジアはその死活を握る、地政学上重要な存在」
        とする。
        なぜなら「中華の思想や価値観は一向に万里の長城を北へ西へ超えることはなかった。仏教とキリスト教、イスラーム教は中国に伝わって定着したが、中国起源の道教や儒教が嘉谷関より西へ広がることはなかった(中略)。中国的な価値観と思想は、遊牧民にとっては異質な生き方で、受け入れがたい精神として映っていた。つまり内陸アジアの遊牧民にとって、中国人ははっきりと異なる文化、文明に属する」
        だから凶奴(きょうど)、突厥(チュルク系)、吐蕃(チベット)に軍事的に制圧されると、中国は遊牧民に女性を贈ることで「結婚による民族戦略」を行使してきた。
        しかも、中国人の認識では、「中華の嫁を妻とした以上は、うちの婿だ」という中華的で独特な発想が根底にあり、相手の政権は「中華の地方政権」という身勝手な論理が露呈する。
        だから「チンギスハーン」は「中華民族」の英雄となるのである。モンゴル人が漢族を征服した屈辱の歴史は、かくして教科書からも消える。

        そこで、楊教授は二つの歴史的イベントを、克明に詳述する。おそらくこの話、日本人の多くが知らないではないか。
        第一の典型的な「神話」は凶奴に嫁いだ「王昭君」であり、第二が「文成公主」である。
        現代中国では、この二人の姫君が遊牧民に嫁いだことは「和宮降家」のごとき扱いなのである。
        遊牧民の呼韓邪単干に漢王朝は宮廷にいた王昭君を嫁として嫁がせる。紀元前33年のことである。
        王昭君は子をなし、「悲劇的女性」、つまり中華のヒロインとして描かれるようになる。
        歴史改竄は朝飯前、現代中国では、王昭君は異民族と結婚し、その屈辱的な風俗習慣に絶えても宥和をはかったゆえ「民族団結のシンボル」となり、二千年も前から甦らせたのである。
        フフホト郊外に巨大テーマパーク「王昭君墓地」なるものがあって、次々と観光客を呼び込んでいる。復活したヒロインの記念公園には、彼女と夫の呼韓邪単干が夫婦仲良く馬に乗っている巨大な銅像が聳えている。テント村の売店ではチンギルハーンの絵画、人形、Tシャツも売られている。
        評者(宮崎)が、この王昭君墓地を見学したのは、かれこれ十数年前である。タクシーを雇って、フフホト市内から三十分ほどだった。
        車を待たせ、テント村に入り、この新しい神話のオブジェが並ぶ場所(彼女の墓地であるかどうかは誰にも分からない。二千年前の話を突如、甦生させたのだから)を見学した。
        彼女は側室の一人でしかなく、しかも呼韓邪単干の死後は、その息子の側室として二人の娘を産んだ(これが遊牧民独特の「レヴィレート婚」)。
        そうした悲劇のヒロインのわりに銅像の風貌はふてぶてしかった。西安に行くと楊貴妃の白い像があるが、想像より遙かに肥っているように。

        二例目は吐蕃(チベット)に嫁いだ「文成公主」である。
        唐の都・長安はチベット軍に降伏した、唐の王家の娘を吐蕃のソンツェンガンポの元に嫁に出した。そしていま、王昭君と並んで「民族団結」のヒロインとして文成公主が現代中国に甦り、あちこちに記念碑やら銅像が建てられている
        評者は、文成公主の巨大な白亜の銅像を青海湖を一周したときに山の中腹でみた。
        つくりは観音菩薩のようで、表情は愁いをたたえているかに見えたが、よくよく考えると唐王朝も漢族ではなく鮮卑系である。
        したがって漢族と蕃族の民族団結とはいえないため、中国は「中華民族」なる架空の概念を発明し、歴史教科書を塗り替えてしまった。
        このようにして本書は、これまでの日本の中国史が意図的に語らなかった部分に焦点を当てながら、その歴史改竄の欺瞞、ご都合主義の実態を客観的に冷静な筆致で暴いてゆくのである。

        posted by: samu | 書評 | 17:18 | - | - | - | - |
        書評/『プーチンとロシア人』(産経新聞出版)木村汎
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          宮崎正弘/書評
          独裁制度の矛盾を気にもしない国民性、ロシア人気質とは何か
          プーチンの飽くことを知らない闘争心、政治哲学なるものは如何にして形成されたか

          一気に読める本である。そのうえ面白い。その活力ある筆致と簡潔な比喩、人間の描写が生き生きとしている。
          プーチンが柔道をこよなく愛しているから日本のことが好きだと日本のロシア分析が飛躍するのは暴論のたぐい、プーチンが柔道に励んだ動機は、彼の幼少のころ、「いじめられっ子」だったからだと木村氏は言う。
          プーチンの闘争の哲学は、このところに原点がある。
          兄二人が夭折したため、母親が41歳で生んだプーチンは溺愛され、それゆえにサンクトペテルブルグの『通り』でよくイジメられた。『通り』というのは不良少年のたまり場である。
          いじめっ子より強くなれば良い、こう結論したプーチンは猛烈に体を鍛える。環境が強い意志をはぐくんだことになるが、短距離出世を狙ってKGBにはいるという直線的な人間でもある。
          つまり、この人生への強い姿勢こそロシア人の基本の掟である。

          「力が正義」なのである。
          「強くなる意志を一貫して抱き」続け、「相手を徹底的にたたく」。そうした人間がロシアでは英雄である。
          ロシア人との交渉事で、妥協は禁物である。そもそも「ロシア語」には「妥協」というボキャブラリーはない。交渉事で、論理が一貫しなくても、ロシア人は気にしない。倫理をまったく重視しないし、交渉においては友情も交友関係も過去の貢献もまったく度外視される。
          つまり「交渉は闘争」であり「交渉は戦争」であり、そして「交渉は武器」なのである。
          なんだか中国人と似ている。ロシアのチェスも中国の将棋にも、そういえば捕虜駒がない。妥協の発想がないという一点に関しては、中ロは二卵性双生児かもしれない。
          「『インテリゲンツィア』という言葉は、日本語における『青白きインテリ』という用法から想像される内容のものではない。必ずしも人間の出自、教育、職業に直目する概念ではなかった。ロシアにおいて「インテリゲンツィア」とは、その人間が自身の高い理想や使命感を抱くとともに、その使命の実現のためには全生命を賭けて戦う準備や姿勢を持ち、かつ闘いを実践中の知識人を意味する言葉だった」(62p)。

          どうしてロシア人がこういう性格を形成してきたのかといえば、第一に気候、天然資源、寒さ、そしてあまりにも広大な土地が原因であると木村教授は言う。
          ロシア人が二律背反を気にしないのも、論理的思考をしないからである。領土は戦争で奪うものであり、政府が何をしていようが、個人レベルでのロシア人はほとんど気にも留めない。
          あれほど凶暴な謀略をめぐらし政敵を粛正しても、ロシア人がスターリンを好きなのは、かれが「大祖国戦争」に勝ったからである。ゴルバチョフに人気がないのは彼が西側に屈服したと感じているからである。

          「ロシア人は、外部の世界に劣等感を抱いている。外国の列強諸国は、隙さえあればじぶんたちに襲いかかろうとする。頭からこう信じている。彼らは外部の世界を疑い、恐れおののいているのだ。(中略)彼らは善意によって差し伸べられた友好の手をいうものを信じようとしない。そこには、何か巧妙な落とし穴のようなものが隠されているのではないかと、疑る。この世に純粋な好意など存在するはずがなく、あるのは闘いのみだ」(178p)

          このようなロシア人気質を了解するならプーチンの謎を解くカギが読める。
          プーチンは強いもの、力を信奉する政治家を好むから、優柔不断で人権と民主とか、浮ついたことを主張したオバマを軽蔑し、短絡的なトランプが好きなのである。三木武夫を嫌い、田中角栄がすきな日本人と、この点は似ているのかもしれない。
          とどのつまり民主政治をロシアに期待するのは無理な注文であり、ロシア人は準独裁、強い指導者が好きなのだ。
          だからシリアへの空爆で、もやもやしたロシアの脆弱政治を吹き飛ばしたプーチンに89%ものロシア国民は賛同し、クリミア併合でも83%が賛成し、西側の制裁なんぞどこ吹く風である。

          すなわち「プーチン外交には、必ずしも確固とした原則や戦略など存在しない。時々の国際状況、とりわけ、『力の相関関係』の変化、そして主要プレーヤーや相手方の出方などを注意深く観察する。その隙間を縫って自国ロシアの影響力の拡大、ひいてはプーチン自身のサバイバルを図ろうとする。すぐれて状況主義的、機械主義的、便宜主義的な行動様式を採る」(143p)
          プーチンは過去18年間、事実上ロシアの命運を左右し、そして次の六年間も最高権力を掌握するだろう。合
          計24年におよぶロシアの最高権力者は、ピョートル大帝を尊敬しているという。したがってトリックを用いて、自国を実力以上に見せる戦いを続ける。
          プーチンは「勝利をもたらし、ロシア人の不安を吹き飛ばすために,『小さな戦争』を好む」だろう。
          繰り返すが、一気に読了した。快作である。

          posted by: samu | 書評 | 09:52 | - | - | - | - |
          書評『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』(ベスト新書)山村明義
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            宮崎正弘/書評

            神道がいまブームだというが、それは本当なのか?
            「神道は宗教ではない」「量子コンピュータにも通じる」


            神社はJINJAであって、SHRINEではない。いきなり納得である。英語のシュラインは墓地を併設するから「廟」と訳されるべきであり、日本の神社(JINJA)には遺骨のない神が祭られている。たとえ神官でも、仏式の葬儀、お寺の墓地に埋葬される。皇族がたは御陵に。
            神道は「アニミズム」と定義したのは英国の文化人類学者エドワード・タイラーだったが、それは「世界各地のアニミズムとは、すべての物や自然現象に、霊魂や精神が宿るという思考で、『宗教の初期段階』と定義し、日本の神道も『遅れた原始宗教』というレッテルをさんざんに張られてきました」
            ところが、現代ではタイラーの説は学界で否定され、「すべての物に魂が宿るような振るまいをするという『量子力学』が広がりつつある」という(57p)
            西欧の古都へ出かけると必ず大聖堂とか由緒ある教会があり、宗教画が仰々しく飾られ、そして地下がお墓である。
            だから、神道は「宗教ではない」と名言を口にされたのは、在日サンマリノ大使のカデロ氏であり、ご自身イタリアに『サンマリノ神社』(祭神は天照大御神)を造営され、しかもイタリア人が日本の神職資格をとって宮司を務める。
            つまり日本の神道は宗教を超えているのである。
            イタリアでは三島由紀夫の政治論文がすべて翻訳されており、小説ももちろんすべて、書棚にはムラカミハルキより、作品がならぶ。イタリアの日本理解は深い。だから前首相のレンツォも伊勢サミットのために来日したおり、伊勢神宮に参拝し、次のように感想を述べた。
            「このような歴史を持ち、示唆に富む場所で、人間の尊厳を保ちながら、経済成長および社会正義のための諸条件をより力強く構築できることを祈念する」

            また近代史の誤解の典型の一つに「戦前の国家神道」説があるが、著者は「国家神道」なるものが存在しなかったことを縷々説明している。
            いまパワースポットとか、御朱印帳を持ち歩いて、神社をあるいている若い女性が目立つ。この人たちにも分かりやすく、入門編として読める。

            posted by: samu | 書評 | 09:56 | - | - | - | - |
            書評/ハーバート・フーバー 『裏切られた自由(下)』(草思社)渡邊惣樹訳
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              宮崎正弘/書評

              20年の歳月をかけ、徹底した資料集めと証人たちとの会話をこなし
              あの戦争は、いつ、どの歯車が狂って始まったのか。元大統領の回想と告発

              アメリカの歴史家の多くが、いまも頑迷にFDR(フランクリン・D・ルーズベルト大統領)を高く持ち上げている。歴史の真実を語ると「歴史修正主義」と言って猛烈な批判がある。おかしな話である。
              当時の世論は参戦に反対だった。フーバーは直前までの大統領であり、慈善事業家としても知られた高潔な政治家。その彼さえもルーズベルトに騙され、ハルノートの存在さえ知らされていなかった。
              ルーズベルト大統領は「狂人」だったのではないのか。

              あの戦争は、アメリカが介入したために傷口が広がってしまった。そればかりか救出しようとした国に地域がごっそりとソ連の傘下にはいった。共産主義の地獄に陥落したのはバルト三国からポーランド、ドイツの東側、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、ベッサラビア、ブルガリア、そしてバルカン半島のユーゴスラビア、ユーラシア大陸の東側を見てもモンゴル、中国、北朝鮮が共産化した。いまもスターリンの高笑いが聞こえてこないか?
              第二次世界大戦の結果、人的財政的被害を最大に被ったアメリカが、とどのつまりスターリンのソ連の野心に無自覚的に手を貸して、自由で闊達だった国々を全体主義の、不自由な地獄に追いやった。もし自覚して意図的にそうしたならFDRは米国史上最悪の犯罪者である。

              フーバーは戦争の事実上の敗北責任をルーズベルト大統領に帰結する。この下巻において著者のフーバー元大統領は感情を抑え、情緒的叙述を避け、しかし第一次資料を根気よく集め、当時の関係者の証言を元にして、従来の歴史解釈を転覆させた。
              この労作の完成には二十年の歳月がかかった。
              評者(宮崎)はすでに本書の上巻を書評し、また訳者である渡邊氏の別の解説書の書評も終えているので、下巻をまた採り上げて書評するべきかを迷った。
              けっきょく「ツンドク」の状態が弐ヶ月。なにしろ浩瀚で、下巻だけでもびっしりと592ページ。書くのに二十年、翻訳に二年だから、読むのみ弐週間くらいかかるのも当然といえば当然だろう。

              ルーズベルトは「ヤルタ密約」をスターリンとの間に結んで、帰国して弐ヶ月後に急死した。
              後を継いだトルーマンは、まったく何も知らされていなかった。ヤルタの密約なんぞ知るよしもなく、驚くべきことにFDR政権下の政府高官たちは、密約の存在さえトルーマンに教えなかったのだ。
              トルーマンの指導者としての資質にも問題があった。彼は凡庸に過ぎた。
              「トルーマンはどのような約束がなされていたかも知らなかった。例えば、ヤルタでの極東に関わる秘密協定などはまったく知らされていなかった。さらに彼の引き継いだ政府組織の多くに共産主義者やそのシンパが国家叛逆的な秘密グループとして潜入していた」(108p)

              フーバーはDFRが七年間になした政策的過ちを十九項目、きわめて分かりやすく列挙したが、1933年のソ連承認、スターリンとの秘密同盟、ヤルタ会議などのリストのなかで、次の六つの対日関係の政策的誤りが指摘された。
              ●対日経済制裁の失敗
              ●近衛の和平案の拒否
              ●三ヶ月の敵対行為停止案の拒否
              ●無条件降伏要求
              ●日本の講話要請の拒否
              ●原爆投下

              「ルーズベルトは国民をまったく必要のない戦争に巻き込みとんでもない厄災を招いた。エゴイズム、悪魔的な陰謀、知性のかけらもない不誠実さ、嘘、憲法無視。これが彼の遣り方に際立っていた」(507p)
              エゴイズムと嘘とが混載されて、彼のまわりは共産主義者が囲い込み、情報はスターリンに筒抜け、要はニューディール政策の失敗を誤魔化すためにも、「国民に安全保障の恐怖を煽ることで、彼は再選を果たした」のである。

              とくに際立つのが対日政策であるとして、フーバーは次の二つを特筆する。
              第一は対日経済制裁だった。「制裁が続けば日本は干し上がってしまい、破滅することが目に見えていた。制裁を続ければ戦争となるのはわかっていたことだった。理由は簡単である。どのような国であれ誇りがあれば、あれほどの挑発を受けて白旗を掲げることはない」
              第二に近衛(文麿首相)と天皇からの和平提案をFDRはニベもなくはねつけたことだった。
              「近衛は、我が国との交渉を経済制裁の始まる弐ヶ月も前から」開始しており、この経緯はルーズベルトに報告されていたのだ。つまり「太平洋方面での和平は可能だった。そうなっていれば中国が(共産主義者に)強姦されるようなことにもならなかった」(494p)。
              経済制裁とは戦争の一手段であり、これを発動したということはアメリカが戦争をしかけ、日本を挑発したことと同義語になる。
              フーバーは明言している。
              「経済制裁は、要するに飢饉をおこしたり職を奪うことによる殺人行為そのもの」であり、当然予期された日本の奇襲に驚いて見せたが、「その驚きは馬鹿げた茶番劇であった。原因は、日本に対するはったりであり日本人の性格の無理解であった」(457p)
              こうしてフーバー畢生の歴史書は、アメリカで大きな波紋を拡げたが、邦訳版がなって、「歴史修正主義」と従来攻撃批判されてきた史観のほうが正しく、戦勝国の一方的史観が偽造の歴史であることが明らかとなった。
              そろそろ左翼の歴史家は総退場するべき時がきた。

              posted by: samu | 書評 | 09:47 | - | - | - | - |
              書評/『国民の歴史』(国書刊行会)西尾幹二
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                宮崎正弘/書評

                あの強烈な、衝撃的刊行から二十年を閲して、読み返してみた
                歴史学界に若手が現れ、左翼史観は古色蒼然と退場間近だが

                版元から配達されてきたのは師走後半、たまたま評者(宮崎)はキューバの旅先にあった。帰国後、雑務に追われ、開梱したのはさらに数日後、表題をみて「あっ」と小さく唸った。
                二十年近く前、西尾氏の『国民の歴史』が刊行され、大ベストセラーとなって世に迎えられ、この本への称賛も多かったが、批判、痛罵も左翼歴史家から起こった。
                初版が平成11年10月30日、これは一つの社会的事件でもあった。もちろん、評者、初版本を持っている。本棚から、ちょっと埃をかぶった初版本を取り出して、全集と比較するわけでもないが、今回の全集に収録されたのは、その後、上下二冊の文庫本となって文春からでた「決定版」のほうに準拠する。それゆえ新しく柏原竜一、中西輝政、田中英道氏らの解説が加えられている。

                初読は、したがって二十年近く前であり、いまとなってはかなり記憶が希釈化しているのは、印象が薄いからではない。その後にでた西尾さんの『江戸のダイナミズム』の衝撃と感動があまりにも大きく強烈だったため、『国民の歴史』が視界から霞んでしまった所為である。
                というわけで、正月休みを利用して三日間かけて、じっくりと再読した。こういう浩瀚な書籍は旅行鞄につめるか、連休を利用するしかない。
                そしてページを追うごとに、改めての新発見、次々と傍線を引いてゆくのだが、赤のマーカーで印をつけながら読んでいくと、いつしか本書は傍線だらけとなって呆然となった。

                戦後日本の論壇が左翼の偽知識人にすっかり乗っ取られてきたように、歴史学界もまた、左巻きのボスが牛耳っていた。政治学を丸山某が、経済論壇を大内某が、おおきな顔で威張っていた。それらの歴史解釈はマルクス主義にもとづく階級史観、共産主義の進歩が歴史だという不思議な思い込みがあり、かれらが勝手に作った「原則」から外れると「業界」から干されるという掟が、目に見えなくても存在していた。
                縄文文明を軽視し、稲作は華南から朝鮮半島を経てやってきた、漢字を日本は中国から学び、したがって日本文明はシナの亜流だと、いまから見れば信じられないような虚偽を教えてきた。
                『国民の歴史』は、そうした迷妄への挑戦であった。
                だから強い反作用も伴った社会的事件なのだ。
                縄文時代のロマンから氏の歴史講座は始められるが、これは「沈黙の一万年」と比喩されつつ、豊かなヴィーナスのような土偶、独特な芸術としての高みを述べられる。
                評者はキプロスの歴史博物館で、ふくよかなヴィーナスの土偶をみたことがあるが、たしかに日本の縄文と似ている。
                遅ればせながら評者、昨年ようやくにして三内丸山遺跡と亀岡遺跡を訪れる機会をえた。弥生式の吉野ケ里でみた「近代」の匂いはなく、しかも発見された人骨には刀傷も槍の痕跡もなく、戦争が数千年の長き見わたって存在しなかった縄文の平和な日々という史実を語っている。
                魏の倭人伝なるは、取るに足らないものでしかなく、邪馬台国とか卑弥呼とかを過大評価で取り上げる歴史学者の質を疑うという意味で大いに賛成である。
                すなわち「わが祖先の歴史の始原を古代中国文明のいわば附録のように扱う悪しき習慣は戦後に始まり、哀れにも今もって克服できない歴史学界の陥っている最大の宿唖」なのである。
                「皇国史観の裏返しが『自己本位』の精神をまでも失った自虐史観である悲劇は、古代史においてこそ頂点に達している」(全集版 102p)

                西尾氏は中国と日本との関係に言語体系の文脈から斬りこむ。
                「古代の日本は、アジアの国でできない極めて特異なことをやってのけた、たったひとつの国である。それは中国の文字を日本語読みし、日本語そのものはまったく変えない。中国語として読むのではなくて日本語としてこれを読み、それでいながらしかもなお、内容豊かな中国古代の古典の世界や宗教や法律の読解をどこまでも維持する。これは決然たる意志であった」(92p)

                「江戸時代に日本は経済的にも中国を凌駕し、外交関係を絶って、北京政府を黙殺し続けていた事実を忘れてはならない」(39p)。

                こうして古代史からシナ大陸との接触、遣唐使派遣中止へといたる過程を通年史風ではなく、独自のカテゴリー的仕分けから論じている。

                最後の日本とドイツの比較に関しても、ほかの西尾氏の諸作論文でおなじみのことだが、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領の偽善(ナチスが悪く、ドイツ国民も犠牲者だという言い逃れで賠償を逃げた)の発想の源流がヤスパースの論考にあり、またハイデッカーへの批判は、西尾氏がニーチェ研究の第一人者であるだけに、うまく整理されていて大いに納得ができた。
                蛇足だが、本巻に挿入された「月報」も堤尭、三好範英、宮脇淳子、呉善花の四氏が四様に個人的な西尾評を寄せていて、皆さん知り合いなので「あ、そういう因縁があるのか」とそれぞれを興味深く、面白く読んだ。
                三日がかりの読書となって、目を休めるために散歩にでることにした

                posted by: samu | 書評 | 10:19 | - | - | - | - |
                書評/『決定版 脱亜論』(育鵬社)渡邊利夫
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                  宮崎正弘/書評
                  幕末維新から日清日露、日本のダイナミックな歴史を裁断しつつ
                  自衛力のない日本外交は福沢諭吉の警告を忘れていないかを問う

                  一年の計は元旦にあり、まさにそれを考えるにふさわしい書が、本書である。
                  題名から判断すると、一見、福沢の警告本『脱亜論』の現代訳と解題の本かと誤解しそうである。
                  ところが本書はまったく異なっての戦略的思考書であり、福沢諭吉の思想と、その執筆動機となった同時代の国際的状況を、現代日本の立ち位置を対比されながら、渡邊氏は我が国の自立自尊の原則的なありかたを追求している。
                  同時にこの本は渡邊氏の現代史解釈であり、そのスピード感覚、パノラマ的叙述の展開におけるダイナミズムもさりながら、基礎に横たわる確乎たる愛国心を読者は発見するだろう。
                  主眼は下記の訴えである。
                  「外交が重要であるのはいうまでもないが、弓を『引て放たず満を持するの勢いを張る』(福沢諭吉『脱亜論』)、国民の気力と兵力を後ろ盾にもたない政府が、交渉を通じて外交を決することなどできはしない、と福沢はいう。極東アジアの地政学的リスクが、開国・維新期のそれに酷似する極度の緊迫状況にあることに思いをいたし、往時の最高の知識人が、何をもって国を護ろうと語ったのか、真剣な眼差しでこのことを振り返る必要がある」。
                  しかし。
                  現代の状況を見渡せば、日本は国家安全保障を日米同盟に好むと好まざるとに関わらず依拠し、しかも歴代自民党が、あまりに依存度を深くしすぎて独立の気概を忘却の彼方に置き去りにしたが、本質的な情勢把握ができている中国は、この日本の脆弱性がどこにあるかを知悉している。
                  だからこそ、と渡邊氏は続ける。
                  「中国が、東アジアにおいて覇権を掌握するための障害が日米同盟である。中国は、みずからの主導により東アジア秩序を形成し、日本の外交ベクトルを東アジアに向かわせ、そうして日米離間を謀るというのが中国の戦略である。日本が大陸勢力と連携し海洋勢力との距離を遠くすれば、日本の近代史の失敗を繰り返すことになる」(236p)。
                  たしかに外交の裏付けは軍事力、そして情報力だ。
                  この二つを欠如する日本が、アジアの暴力国家群と渡り合えることはあり得ず、北朝鮮の挑発、韓国の暴発、そして中国の『アジア的暴力』に対抗するにはどうしたらよいのか、自ずと結論は見えている。

                  渡邊氏はアジア全般の経済に関して造詣が深い学者であるが、いまの中国を、次のように簡潔に概括されている箇所があり、大いに参考になった。
                  「古来、中国に存在したのは封建制ではなく、郡県制である。全土をいくつもの郡にわけ、郡の下に県をおき、それぞれの郡と県を中央の直下において、その統治は中央から地方に派遣された官僚によって一元的になされるという、皇帝を頂点とする古代的な官僚政治体制が一貫して踏襲されてきた。朝鮮の王朝は中国のコピーだといっていい。郡県制は、封建制とは対照的な中央集権的で専制的な統治機構にほかならない」(12p)

                  まさに中国の政治体制は、いまもこの原則が機能しているばかりか、じつは中国の軍隊制度も同じなのである。すべての軍区が中央軍事委員会直轄となって、習近平皇帝直属の軍隊と組織図的には編成替えされているのである。
                  とはいえ、地域的軍閥がなぜ危機になると生まれるかは、じつはその弊害の反作用であり、中央の強圧的求心力が弱まると、自らが遠心力に便乗し得独自的行動を開始する特徴がある。
                  念頭に読んで、大いに参考となった

                  posted by: samu | 書評 | 10:00 | - | - | - | - |
                  書評『日本は誰と戦ったのか』(KKベストセラーズ)江崎道朗
                  0

                    江崎道朗『日本は誰と戦ったのか』(KKベストセラーズ)
                    矢板明夫『習近平の悲劇』(産経新聞出版)
                    石平『習近平の終身独裁で始まる中国の大暗黒時代』(徳間書店)

                    宮崎正弘 書評

                    こういう人物が中国の『最高指導者』であることが
                    中国ばかりか、世界を不幸のどん底に陥れるだろう


                    矢板明夫『習近平の悲劇』(産経新聞出版)
                    @@@@@@@@@@@@@@@@@

                    日本のメディアの多くが「習近平が権力を掌握」し、「三期目を目指しているため、次期後継者を政治局常務委員に加えなかった」などと分析した。
                    表面的な動きだけなぞると、そういう論考もあるのだろうけれども、習近平は権力を固めていない。事実上、軍権を掌握できていない。不満分子が山のようにいて習近平の失脚を狙っているというのが現実の状況である。
                    ずばり、矢板氏は指摘する。
                    「習による側近政治、恐怖政治に早く終止符を打ちたい各派閥の幹部も、『習降ろし』を始める可能性があり、習の三期目があるかどうかは流動的だ」。
                    評者(宮崎)も過日、この蘭で論じたように、トップセブンのうち、習近平派は三人、団派はふたり、江沢民派が一人、そして無派閥が一人という「派閥均衡」の人事であることに留意すべきで、これでなぜ習の独裁体制と言えるのか?
                    濱本良一(國際教養大学教授。元「読売」北京支局長)は、党大会に百歳になる宋平が出席した事実などを踏まえ「党指導層が生き残りをかけて生んだ総意」(『エルネオス』、17年12月号)だと分析したが、おそらくこれが真相に近い。
                    一部の議論に「習近平が絶大な権力を固めた」などとするものがあるが、これは過大評価でないとすれば、おべんちゃらではないのか。
                    こうした分析も、評者近作の『連鎖地獄』(ビジネス社)で展開したばかりである。
                    じつは習近平はコンプレックスの固まりであり、肩書きばかりを欲しがり、過去五年間に習近平が着手した「改革」なるものは、すべて、ものの見事に失敗だった。
                    政治改革はゼロ、社会は毛沢東の暗い時代へ後戻りし、経済改革には手を着けられず、ゾンビ企業を放置し、軍改革にいたっては大失敗という無惨な結果が、なによりも習近平の無能ぶりをあらわしている。
                    しかも中国社会は以前よりぐんと暗くなった。
                    国有企業をばっさりとスリム化すれば良いのに、それを李克強首相にやらせず、経済政策決定権を李首相から取り上げた。だから経済改革の一番の要が挫折している。
                    通貨改革も、せっかく人民元がSDR入りしていても、習近平は中央銀行総裁の周小川にまかせっきりにせず、外交に到っては、いまも素人の範疇から抜け出せない。劣等感がなせる疑心暗鬼が、ほかの指導者の手柄にしたくないという狭窄な心理に支配され、中国経済の前進を阻んでいる。
                    そのことに習は気がつかない。なぜなら彼の周りを茶坊主が囲んでしまったからだ。
                    これからの習が直面するのは中国経済の破綻である。
                    日本のメディアの多くが「中国経済崩壊論はあたらないではないか」と崩壊論を予測してきた評者らへの批判が喧しいが、中国経済はとうに破綻しているのであり、それを誤魔化しているに過ぎないのが実態である。
                    だから矢板氏もこう書く。
                    「中国経済は『タイタニック号』のような大きな船であるため、穴がたくさん開いたとしても沈むのには時間がかかる」(45p)。
                    そこで「習思想」を党綱領に加えたからと言って、彼が毛沢東と並ぶ指導者であるはずがない。矢板氏は手厳しくこう言う。
                    「習思想」なるものは「トウ小平が唱えた『中国の特色ある社会主義』の理論に『中華民族の偉大なる復興』をいった勇ましいスローガンを加えただけで、習のオリジナルは殆どなく、とても思想と呼べる代物ではない」(38p)
                    中国報道に携わって北京特派員を十年、さすがにベテランのチャイナウォッチャーだけに、そのへんに蔓延る怪しげな中国観察とは次元が異なる。
                    ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
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                    FDRのホワイトハウスは共産主義スパイが乗っ取っていた
                    コミンテルンの指令で暗躍した奴らに米国は完全に騙された

                    江崎道朗『日本は誰と戦ったのか』(KKベストセラーズ)
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                    多くの機密文書やヴェノナ文書が公開され、FDR政権の内部に深く静かに浸透していた共産主義のスパイらによって、外交政策が決定され、政策は曲げられ、アメリカの国益より国際共産主義運動の勝利が目的に置き換わっていた。
                    都合の悪い情報は大統領に伝えず、あるいは重要な機密電報は握りつぶされ、平和工作は妨害された。ホワイトハウスがコミュニストに乗っ取られていたからだ。
                    本書の題名が象徴するように、日本がアメリカとの戦争に踏み切らざるを得なくなったのはスターリンの工作により、ワシントンが判断を間違えたからであり、近衛文麿の周辺を囲んだ昭和研究会が旗振り役となってしまったのも、中枢にいた朝日新聞記者がコミンテルンの指令をうけたスパイだったからであり、ソ連のスパイだったゾルゲの暗躍が舞台裏で進行していた。
                    すでにこれらの真実はアメリカでも「歴史修正主義」を呼ばれる保守系知識人の間では常識となっている。
                    ハルノートは直接的挑発であるが、仕組んだのはスパイのオーウエン・ラティモアだった。
                    ヤルタ会議を仕切ったのはアルジャー・ヒスだった。こうした裏面史をアメリカは長きにわたって機密文書化し、国民に触れることを禁じてきた。
                    ようやく多くの知識人、勇気あるジャーナリスト等の手によって、真実の歴史に書き直されつつある。その象徴的事件はヴェノナ文書が公開されたことだった。そしてフーバー大統領の回想録「裏切られた自由」の刊行であり、日本語の翻訳も上下巻、渡邊惣樹氏の翻訳で、いま出そろった。
                    だが、歴史学界とリベラルなメディアは、「アメリカを裏切った者たちを、あたかも無実の被害者であるかのようにかばい、寧ろ英雄視してきました」(280p)
                    まさに日本も同じで、尾崎某が「英雄視」され、ゾル下の愛人が悲恋の主人公扱いされ、手記がベストセラーとなり、日本を裏切った政治家が過大評価されてきた。
                    最後の部分で、江崎氏は「スターリンの秘密工作員」から次の箇所を引用する。
                    「突き詰めて言うと、1930年代と40年代の共産主義の共謀者たちは、一部の合衆国政府高官らに助けられ、売国しながら逃げ切ったのである。
                    相対的にホンの一握りの人々だけが起訴され、有罪判決をうけたが、その他大勢は合衆国と非共産主義世界を何度もモスクワに売り渡し続け、自分たちが引き起こした政策の破壊を後にして、自分たちの行為を何ら説明することなく立ち去ることが出来たのである」
                    いや日本でもゾルゲに連座して取り調べをうけても戦後は知らん顔でモスクワへ通って代理人を果たした輩は多い。
                    しかし、それよりも、ホワイトハウスが乗っ取られていた歴史的事実を、現在日本の状況に当てはめると、もっとゾッとしないか。
                    北京の秘密指令を受けたかのような日本のメディア、外交官、学者、ジャーナリストらが、独裁国家の報道をねじ曲げ、むしろ日本を貶めるような偏向記事やテレビ番組を日夜量産しているではないか。
                    FDRのホワイトハウスが共産主義スパイで乗っ取られていたという過去を、現在の日本の中枢にあてはめて比較すると、そのあまりに無惨な自主性の喪失に身震いがする。


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                    なぜ習近平が訪日を嫌うのか。それは戦争を準備しているからでは?
                    元中国人民主活動家だった石平だからこと言える「彼らのメンタリティ」


                    石平『習近平の終身独裁で始まる中国の大暗黒時代』(徳間書店)
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                    第十九回中国共産党大会と、その後のトランプ訪中、習近平の大歓待演出劇以後の状況を踏まえての中国最新報告と近未来予測が本書の骨格だが、論の展開の基調は題名の通りに、いささか暗い。
                    そもそも習近平は、どのような妄想に取り憑かれて「神格化」などという途方もない破滅的行動を取るのだろう。そうした夢遊病者のような発想の源泉は何か?
                    ちょっと日本人では考えも及ばない論理の組み立て方が、元中国人であったがゆえに著者は独創的解釈を披瀝する。
                    なぜ習近平が訪日を嫌うのか。それは戦争を準備しているからでは? という仮説から、民主活動家だった石平氏は彼らのメンタリティを掘り下げる。
                    永久政権が達成可能と錯覚するのは一種病気でもあるし、妄執でもある。
                    人権派弁護士への弾圧、政敵をつぎつぎと冤罪で失脚させ、軍隊再編に乗り出した。ネット監視団を置かないと不安で仕方がないらしい。暗殺を恐れて、軍内に残存する江沢民派の根こそぎ粛清を狙うようだが、張陽(陸軍大将。政治工作部主任)が首つり自殺してように、この自決は、日本流に言えば「諌死」ととれなくもないと評者は考えている。
                    しかし習近平の妄執による独裁は、次ぎに必然的に戦争を引き起こし、世界に破局をもたらすと石平氏は指摘する。
                    なぜなら言論空間は窒息寸前、企業活動には党細胞が義務づけられ、外資の経営方針にも党細胞が介入すると、自由市場原理は成立しなくなり、すべてが統制経済の昔に陥れば、社会と経済は締め上げられて、不満の爆発を待つしかない。
                    これをすり替えるには日本に戦争をしかけることも躊躇わないだろうと、論理的に帰結するわけだが、こうしたシナリオも実現性を全否定できないほどに、中国の現況は不気味である。
                    また北朝鮮を習近平は政治の道具として活用しているのだと分析する。
                    「ある意味では、北朝鮮危機のお影で習主席は、本来なら中国に向けられるはずのトランプ政権の矛先をうまくかわすことが出来た(中略)。世界に脅威を与えている北朝鮮の核が、世界の脅威であればあるほど、その脅威が現実的なものとなればなるほど、アジアや世界に対する中国の軍事的脅威は影を薄め、忘れられてしまうからだ」(181p)。
                    つまり習近平の軍事的野心を隠すにも、怖れを知らないほどに世界に恐喝を続ける金正恩の核を取り除くのは中国だと宣伝して、自らは経済制裁に協力するふりをしつつも、自らの核を忘れさせ、「隠れ蓑」として活用していると指摘するのである。
                     

                    posted by: samu | 書評 | 09:38 | - | - | - | - |
                    書評『なぜ中国は民主化したくてもできないのか』(KADOKAWA)/石平
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                      宮崎正弘/書評

                      「独裁皇帝」は中国人の歴史的体質に染みこんだ「必然」なのだ
                      暴力革命、国土の荒廃より独裁政治による社会の安泰が大事という考え方

                      石平氏の前作『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)と併せ、本書によって『石平・歴史学』の双璧がなった。
                      本書を読了し、長年の謎がふたつ解けた。
                      第一は中国における徳川家康ブームというミステリアスな現象の根幹にある、中国人の深層心理の不可思議さがなかなか理解できなかった。
                      上海でも北京でも広州でも空港の書店には山岡荘八の長編小説『徳川家康』の中国語版が積み上げてある。昆明空港で、ある時、樋泉克夫教授と書店に入ると、目の前で中国人のビジネスマンが『?川家康』を購入した。ロビィでは別のビジネスマンが他の巻を小脇に抱えている。日本では『三国志演義』が広く人口に膾炙されているが、中国は逆だ。
                      「この現象は何でしょう?」
                      「長期安定政権の秘訣を知りたいのでは」とかの会話が弾んだ記憶がある。

                      第二は、ちょっと飛躍するかも知れないが、過去十年の欧米の動き、とくに対仲外交への姿勢の変化だった。
                      すなわち「人権」にあれほど五月蝿かったフランスもドイツも、そして米国も英国も、習近平に対して「人権」問題をほとんど口にしなくなった。このことが不思議でならなかった。いったい西洋民主主義政治のレゾンデートルを軽視してまで中国に歩みよる欧米人の頭の中で、カシャカシャと金銭計算機の音が鳴るような、あからさまな打算の源泉はなにか、彼らが欲しいのはチャイナマネーだけではない筈だろう。

                      石平氏は、この謎に挑むかのように、中国人の体質をわかりやすく解きほぐし、「皇帝政治」の復活、すなわち習近平の「任期無期限」「新しい皇帝の誕生」というのが「終身主席体制」であり、これが中国史に連続する「歴史の必然だった」と結論するのである。
                      具体的にみていこう。
                      「皇帝独裁の中央集権制」では「官僚への任命権と意思決定権を握る皇帝が絶対的な権力者」であり、他方、「皇帝には最高権威としての地位も付与された。それは、皇帝が持つ『天子』という別の称号」(中略)「中国の伝統思想において、森羅万象・宇宙全体の主はすなわち『天』というものだが、皇帝はまさに『天の子』として『天からの任命=天命』を受け、この地上を治める」のである(57p)
                      かくして中国の皇帝は天命を受けた天子であり、唯一の主権者ゆえに、「皇帝は自らのやりたいことが何でもできる絶対権力になるが、(中略)この絶対的権威と権力こそが、皇帝とその王朝を破滅へと導く深い罠になっている」(58p)

                      万世一系の天皇伝統と、中国とはまさにシステムが異なり、「皇帝」とは諸外国の歴史にあった「ツアー」であり、「キング」、「ディクテイター」であっても、決して天皇ではない。日本の天皇は「祭祀王」であって権威があるが、権力はない。

                      石平歴史学は次に習近平独裁皇帝がなぜ現代中国に、それこそ自由陣営からみれば、歴史に逆行する時代錯誤でしかない、近代的摩天楼とハイテク産業が林立し、世界貿易に輸出王として傲慢に君臨し、大学生が毎年800万名も卒業してゆく、この現代中国に、独裁政治がなにゆえに必要なのかを説く。

                      「長い歴史のなかで、『聖君と仁政さえあれば嬉しい』というような『聖君』と『仁政』に対する待望論が、いつの間にか『聖君と仁政がなければ困る』という『聖君と仁政の不可欠論』と化し、『聖君・仁政』の思想は『皇帝独裁の中央集権制度』を正当化するための最大の理論となった」(89p)

                      なんというアイロニーだろう
                      易姓革命の中国では、絶対的権力は絶対的に腐敗し、絶対的に破綻する。その度に、王朝と眷属は九類に至まで粛清され、大量の殺戮が全土に展開され、すなわち魯迅が言ったように「革命 革革命 革革革命」となってきた。
                      石平氏はつぎのように演繹する。
                      「皇帝政治によって天下大乱が招かれた結果、この天下大乱の悲惨さを知り尽くした中国人は逆に、天下の安定を維持して天下大乱を避けるための役割を皇帝政治に期待し、皇帝政治を天下大乱と万民の生活安定の要として守ろうとしているのである」(93p)

                      ナルホド、十四億の民を統治する一種の逆説的智恵だが、さて習近平は明らかに「天子」ではないことも、同時に全国民が知っている。となると『習近平独裁皇帝』の破滅は、国民が自ら大乱を望む危機が来れば、すなわち経済的破滅がやってくれば、忽ち倒壊するリスクを同時に背負っているということになる。
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                      posted by: samu | 書評 | 09:37 | - | - | - | - |