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昭和天皇と水際撃滅による本土決戦/西村眞悟
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    昭和天皇の誕生日の翌日、
    やはり「昭和天皇と本土決戦」のことを書いておきたい。
    その上で、末尾に、
    戦後という時代が始まるに直前まで、
    大将から兵卒に至るまでの全ての兵士が
    何を決意したのかを知るための絶好の一書を諸兄姉に薦める。
    歴史を回復し、
    日本を取り戻すために、
    必読書と思うからである。


    まず戦争に臨む二人の人物の言葉を記したい。

    (1)私が一瞬でも、交渉や降伏を考えたとしたら、
    諸君の一人一人が立ち上がり、私をこの場から引きずり下ろすであろう。
    私は、そう確信している。
    この長い歴史をもつ私たちの島の歴史が、
    遂に途絶えるならば、
    それは、我々一人一人が、自らの流す血で喉をつまらせながら、
    地に倒れ伏すまで、戦ってからのことである。

    (2)戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、
    戦はずして亡国にゆだねるは、身も心も民族永遠の亡国であるが、
    戦って護国の精神に徹するならば、
    たとい戦いに勝たずとも、祖国護持の精神が残り、
    我らの子孫はかならず再起三起するであろう。
    統帥部としては、先刻申したとおり、
    あくまで外交交渉によって、目的貫遂を望むものであるが、
    もし不幸にして開戦と決し、
    大命が発せられるようなことになるならば、
    勇躍戦いに赴き、最後の一兵まで戦う覚悟である。

    (1)の言葉は、
    昭和十五年(一九四〇年)五月二十八日のイギリス議会における
    首相ウインストン・チャーチルの演説である。
    この時イギリス軍は、
    一万の戦死者と三万の捕虜をだしながら
    ドイツ軍にフランスのドーバー海峡に臨むダンケルクまで追いつめられ、
    イギリス本土からは、
    あらゆる漁船からレジャー用ヨットそしてボートまでがドーバー海峡を渡り、
    ダンケルクの海岸からイギリス軍兵士を救出していた。
    この時、イギリス政界にはナチスドイツの工作活動によって、
    ドイツと「話し合おう」という有力な勢力があった。
    しかし、チャーチルは、議会で断固としてイギリスは戦うと宣言した。
    そして、伝記作家は次のように書いている。
    このチャーチルの決断によって、
    一年以内に三万人のイギリスの男性、女性、子ども達がドイツの手によって殺害された。

    (2)の言葉は、
    海軍軍令部総長永野修身が、
    昭和十六年十二月一日の御前会議における開戦決定前に述べた覚悟である。

    何故、この二人の人物の言葉を記したのか。
    それは、イギリスと日本と、国は違っても、
    祖国の戦いに臨む思いは同じであると確認したからだ。
    チャーチルは、「本土決戦」の覚悟を表明し、
    永野修身も「最後の一兵まで戦う」と述べた。
    そして、イギリスは勝利し、日本は敗北した。
    従って、チャーチルが言った
    「自らの流す血で喉をつまらせながら地に倒れ伏すまで戦う」
    準備をしたのは我が国だった。

    しかし、戦後の我が国の風潮は、
    敗北して歴史を奪われたが故に、
    この「血で喉をつまらせながら地に倒れ伏すまで戦う」覚悟を
    祖国の精神を後世に伝えるための尊い決意であることを没却し、
    狂信的な軍国主義か集団発狂かのレベルで一笑に付すのである。
    しかし、チャーチルが軍国主義の狂信者ではないように、
    我が国の本当の「本土決戦」を決意した当時の国民も狂信の徒ではない。
    然るに、
    昭和四十二年封切られ、一昨年の平成二十七年に再び封切られた
    我が国の終戦の日の八月十五日に関する映画「日本の一番長い日」は、
    あまりにも皮相的で軽薄で、
    真の「本土決戦思想」の本質は全く描かれていない。

    そこで、昭和天皇と、
    この「本土決戦」を見つめたい。
    これこそ「身も心も永遠の亡国」か
    それとも「護国の精神」を維持するか、
    我が国の運命の境目だったからである。
    そして、国民に対する放送において、
    「國體を護持し得て」
    と宣言され、
    「確く神州の不滅を信じ」
    と国民を励まされた
    昭和天皇こそ、我が国の運命を決せられた御一人である。

    結論から言うならば、
    真実の「本土決戦思想」は、
    レーニンの唱えた「敗戦革命戦略」、即ち、
    我が国を「敗戦から革命へ」という
    共産主義革命路線に雪崩れ込ませて共産化するという危機から切断し、
    チャーチルと永野修身が唱える
    「祖国護持の精神」を残すために戦おうとするものであった。

    昭和天皇は、二度、壊滅に瀕した首都東京を眺められ都内を巡回された。
    一度目は、大正十二年九月、関東大震災の時に、摂政として、
    二度目は、昭和二十年三月十日のアメリカ軍の東京大空襲後の時に、天皇として。
    この二度目の時に、政府は
    天皇陛下に長野県松代に造った長大な地下壕のなかに造営した
    「皇居」にお移りいただきたい旨申し出た。しかし、
    天皇陛下は、東京に留まる、とその松代の皇居への移転を拒否された。

    昭和十九年七月にサイパンが陥落し、
    我が国の首都東京はアメリカ軍の爆撃圏内にはいる。
    そして次に、フィリピン戦線での日本軍の敗北が決定的になって、
    アメリカ軍の本土侵攻が可能となってきた。
    そこで、陸軍省は、統帥部に計らず、
    サイパン陥落の頃から東京から長野県の松代の地下に
    大本営および政府関係機関また放送協会を移動させ、
    さらに皇居を造営してそこに天皇陛下も移っていただく大疎開の突貫作業に入った。
    そして、東京大空襲をうけて、
    天皇陛下に、ほぼ完成した松代の地下皇居に移っていただこうとしたのである。
    しかし、前記の通り、
    天皇陛下は、お移りにならなかった。
    最後まで、国民とともに危険な東京に留まろうとされたのである。

    仮に、天皇陛下が松代に移られたら、
    大本営も政府機関も松代に移ったであろう。
    では、本土防衛戦は如何なる場所で行われたのか。

    それは、房総半島と相模湾から上陸したアメリカ軍主力が
    長野県の手前の中部山岳地帯に入ったところである。
    そこまでの間でも住民を巻き込んだ徹底的なゲリラ戦を展開して消耗させたうえで、
    山岳地帯に入ったアメリカ軍を膠着状態に陥れたときに、
    松代の大本営の背後にある日本海からソビエト軍が上陸すれば、
    日本の共産化が実現する。

    これが当時、陸軍省内部にいた「親ソ連派軍人」の狙いであった。
    これら親ソ連派軍人は、
    「シナ事変の最中に陸軍省の各部局に入り込んできた召集将校たちであり、
    その正体は右翼を装った転向共産主義者であった。」(大東亜戦争と本土決戦の真実」家村和幸著)

    このように、大本営も皇居も松代の内陸部に移すということは、
    上陸してきた敵を国土深く侵攻させて住民と共に徹底的な戦いをすることになる。
    この皇居の移動を、きっぱりと拒絶されたのが
    昭和天皇である。
    昭和天皇は、最後まで、敵が上陸してくる海が見える東京の「水際」に留まり、
    国民と共にある、と表明されたのだ。
    御自身の身の危険のことは一切考慮されていない。

    そこで、ここから、
    天皇陛下の御決意とともに、
    陸軍の対上陸作戦思想が如何に変わったかをみなければならない。
    即ち、
    後方で上陸軍を迎え撃って持久戦を展開するという
    「後方配備」の思想から、
    敵が上陸する水際で直ちに決戦を挑み、
    「最後の一兵になるまで戦う」という
    「水際撃滅」の思想に転換したのである。

    この水際撃滅の思想は、
    軍隊は、日本民族再興の基盤である国民を戦いに巻き込まずに守りとおし、
    軍人は最後の一人に至るまで戦って死ぬというものだ。
    これは何も狂信的ではない。
    松代に後退して内陸で国民を巻き込んで戦う
    そしてソ連の侵攻を待つ、という方が狂っている。

    ドイツ軍司令官ロンメル元帥も、連合軍のノルマンディー上陸直前に言っている。
    「勝負はこの海岸で決まる。
    敵を撃退するチャンスは一度しかない。
    それは敵が海のなかにいるときだ。」

    昭和二十年六月、参謀次長通達「本土決戦根本義の徹底に関する件」に言う。
    「いやしくも戦況苦難の故をもって当面の決戦を避け、
     後退により持久を策するが如き観念は、
     本土決戦の真義に反するものなり」

    そして、この思想に基づき、帝国陸海軍は
    「自らの流す血で喉をつまらせながら、地に倒れ伏すまで戦う覚悟をして」
    我が国の水際の陣地構築の突貫作業に入った。
    その上で、
    昭和天皇は、
    我が国の運命をかけた瞬間を乗り切っていかれ、
    帝国陸海軍が戦いをやめて消滅した後にも
    たったお一人で、
    日本が日本であり続ける根源の姿、國體、を守り抜かれたのだ。

    そこで、冒頭に記したように、
    諸兄姉に、
    是非次の本を読んでいただきたい。
    この本は、
    日本陸軍の最後に確立した水際撃滅思想の本質を、
    元寇に次ぐ我が国の二度目の壮烈な本土防衛思想として位置付ける書であり、
    我々の誇りを喚起してくれる書である。
    著者は、陸上自衛隊の中佐(二等陸佐)で、
    現在は、「日本兵法研究会」を主催する家村和幸氏である。

    書名 「大東亜戦争と本土決戦の真実」
    著者 家村和幸
    発行者 奈須田若仁
    発行所 並木書房
       〒104−0061 東京都中央区銀座1−4−6
    筺。娃魁檻械毅僑院檻沓娃僑
    FAX 03−3561−7097

    posted by: samu | 歴史認識 | 11:36 | - | - | - | - |
    時代は、戦艦「三笠」が戦った時に回帰している/西村眞悟
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      四月二十一日は、午後六時から埼玉県大宮で、
      我が国と周辺諸国X・Y・Z(自衛隊における仮想敵国の符丁)について講話をすることになっていた。それで、昼食を横須賀のドブ板横丁でとり、
      その後、日露戦争における連合艦隊旗艦「三笠」を久しぶりに訪れて挨拶し、
      原子力空母ロナルドレーガン(10万1500トン、全長333メートル)がいるのを確認してから埼玉に向かった。
      以下、横須賀の情景と埼玉の大宮における話の概略を記してご報告とする。

      海を背にして立つ東郷平八郎提督の銅像の背後に
      連合艦隊の旗艦である戦艦「三笠」が「日の丸」と「Z旗」を掲げて係留されている。
      「Z旗」を掲げているということは、
      「三笠」は、明治三十八年(一九〇五年)五月二十七日、
      敵艦見ゆとの警報に接し、鎮海湾から対馬北東海域に向けて連合艦隊を率いて、
      国家の運命を背負って、ロシア帝国バルチック艦隊の迎撃に向かう時の旗を、
      今も、掲げているということだ。
      その「三笠」を見上げて船内に入れば、
      我が国の歴史における帝国の興廃をかけた劇的な一瞬が、
      そこに凝縮されて今も留まっているような思いがする。
      フランスのドゴールが
      イギリスのアジア支配の根拠地であるシンガポールの陥落(一九四二年二月十五日)
      の報に接して言ったように、
      二十世紀が、日本が数百年にわたる白人の世界支配を打ち破った世紀だとするならば、
      その三十八年前の一九〇五年五月二十七日に、対馬沖で、
      ロシアのバルチック艦隊を撃滅して日本の興廃を決した戦艦「三笠」は、
      やはり二十世紀最大の世界史を創造した劇的な船である。
      戦後の一時期、
      東京の万世橋の駅前に立つ旅順閉塞作戦の英雄広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像が、
      勝者の占領軍・GHQにおもねる卑しい日本人たちによって
      自主的に破壊されて撤去された終戦後の情けない風潮のなかで、
      よくぞ「三笠」は残ったと、その存続に尽力した人々に感謝する。
      「三笠」は日本とアメリカの双方の心ある人々の尽力によって存続できた。
      しかし、広瀬中佐の銅像を撤去した同じ卑しい風潮のなかで、
      戦後しばらく、心無い者たちが、
      「三笠」の甲板上にダンスホールを建てていたことも記憶すべきである。

      次に、原子力空母ロナルドレーガンが、
      海上自衛隊横須賀総監部の対岸のアメリカ海軍の岸壁に泊まっているのを確認した。
      その本体はほとんど見えず艦橋の上部だけが見えた。
      出撃はまだか、と思いもする。
      手前の総監部の岸壁には、ヘリ搭載型護衛艦という名のヘリ空母「いずも」(1万9500トン、全長248メートル)と護衛艦「むらさめ」が係留されていた。
      「いずも」は、ミッドウェー海戦で、敵空母「ヨークタウン」を撃沈して一矢を報いた
      山口多門提督が乗っていた殊勲の空母「飛龍」(全長227メートル)とほぼ同じ大きさである。
      我が国も、早急に、正真正銘の空母機動部隊を保持して
      東アジアの海洋の平和を守らねばならない時代に入っていると思った。

      そして、横須賀を後にして埼玉の大宮に向かう。大宮で話せと戴いた議題は
      「これからの日本〜対中国、北朝鮮、韓国、ロシア〜」
      つまり「日本とX・Y・Z」である。

      (1)日本とX・Y・Zを文明圏として観れば
      日本と西のユーラシア大陸の東にある中国、朝鮮、ロシアの間にある
      日本海、玄界灘、そして東シナ海は、太平洋より広い。

      ロシア人は、約束は破るものだと思っているので、破るために約束をする。
      シナ人は、そもそも約束は守るものだと思っていない。

      日本人は「嘘をつくな」と子供に教える。
      即ち、日本は、嘘をつくことは悪いとする文明である。
      大陸側は「騙されるな」と子供に教える。
      即ち、大陸側は、嘘をつくことは悪くないとする文明である。
      それ故、
      X・Y・Zの兵法の基本は、
      敵(異民族)を撃滅するために「敵を騙すこと」であり(孫子)、
      日本の兵法の基本は、
      天皇の下の和を回復するための「誠」である(闘戦経)。

      このロシアとシナの密約が、
      明治二十九年(1896年)の露清密約だ。
      これは、日清戦争後のロシアの三国干渉の後、
      清の李鴻章とロシアのロバノフ外相・ウィッテ蔵相との間で交わされた密約で
      日本が、ロシアか清か朝鮮を攻めれば、
      ロシアと清は共同して日本に対抗することを約した攻守同盟であり、
      さらに、ロシアが李鴻章に渡す巨額の賄賂を以って
      ロシアの満洲における鉄道施設と銀行設立(鉄道と銀行による征服)の対価とした、
      つまり、李鴻章は満洲をロシアに売却した。
      現在、李鴻章の子孫は、名前を変えてアメリカで富豪として生活している。
      この露清密約は、
      ロシアの満洲から朝鮮半島への南下を促進して日露戦争の原因となる。
      しかし、我が国はこの密約を知らず、
      日露戦争において、血を流してロシアを満洲から駆逐した。
      そのおかげで、清はロシアに売却した満洲を何食わぬ顔をして取り戻したのである。
      まことに、
      十九世紀末の三国干渉と露清密約は、「東亜百年の禍根」である。
      そして、現在、
      ともに西太平洋に進出しつつあるこのロシアとシナの間に、
      また、百二十年前の露清密約と同じ「対日攻守の密約」の匂いがするではないか。

      (2)仮想敵国としてのX・Y・Z
      二〇一五年九月二日、
      仮想敵国Z=ロシアのプーチン大統領は、
      仮想敵国X=中共の習近平主席の主催する「対日戦勝七十周年軍事パレード」に参加し、プーチン大統領と習近平主席は、
      北京の天安門上で仲良く軍事パレードを見物した。

      そのロシアは、我が国の領土である北方領土の不法占拠を続けている。
      そして中共は、我が国の領土である尖閣を奪おうとしており、
      さらに、琉球共和国独立構想を掲げて沖縄本島までをも飲み込もうとしている。
      さらに、ロシアは、
      我が国の固有の領土である北の国後と択捉にミサイル基地を建設している。
      中共は、我が国の南のシーレーンが通る南シナ海に軍事基地を建設している。
      即ち、我が国の南北の海洋に、ロシアと中共は、同時に軍事基地を建設している。

      平成二十八年度の我が国航空自衛隊のスクランブル発進は千百六十八回であり、
      その発進の七十パーセントが対中共空軍機、
      三十パーセントが対ロシア空軍機である。
      中共とロシア海軍は、昨年六月、南シナ海で合同軍事演習を行い、
      同時期、我が国の宮古島沖領海をロシアと中共の軍艦が相次いで侵犯した。
      このスクランブル発進回数は、一日三回の密度であり、既に冷戦期の密度を超えている。
      つまり、我が国の北と南の空域は、
      中共とロシアに挟撃されているかの如き緊張下にある。

      ロシアの、国後・択捉におけるミサイル基地建設は、
      オホーツク海をロシアのSLBMを搭載する潜水艦の聖域にするためだ。
      そして、中共の南シナ海における基地建設と東シナ海の尖閣領有への行動は、
      南シナ海と東シナ海全域を中共の海にするためだ。
      そして、ロシアと中共の両国は、
      我が国の東に広がる広大な西太平洋を中ロの海にしようとしている。
      つまり、中ロ両国は、海洋国家である我が国の
      「海洋の航行の自由」を奪おうとしている。
      これ、恐るべき動き!ではないか。
      やはり、Xの中共とZのロシアは、友好関係を築けるような行動はしていない。
      これらは、仮想敵国にとどまらず、既に現実の顕在敵国である。

      そして、仮想敵国Y=北朝鮮は、周知のとおり核とミサイルの開発を急いでいる。
      アメリカのティラーソン国務長官は、
      過去二十年におよぶアメリカの対北朝鮮政策の誤りを認めた。
      我が国も、北朝鮮に巨額資金の提供を約束した平壌宣言に象徴される
      対北朝鮮政策の誤りを認める必要がある。
      そのうえで、日米両国の対Y共同対処を実施すべきである。
      北朝鮮に対する影響力に期待して、
      北朝鮮の非核化に関して中共に任せようとする風潮があるが、
      これは強盗に町内防犯パトロールを任せるようなものである。

      Yではないが、政情混沌としたなかで、北朝鮮への接近の動きのある韓国に対しては、
      昨年に公表された筑波大学大学院教授の古田博司氏の次の論考に従うべきである。
      「庶民である日本国民は、
      あくまでも『助けず、教えず、関わらず』の非韓三原則で対処し、
      彼らの騒ぎに巻き込まれないように、対岸の火事を見るがごとくし・・・
      日本からの援助を求める韓国内の声に耳を貸してはならない(産経新聞朝刊、平成二十八年二月十日)。」

      (3)我が国はいかに対処すべきか
      それは
      「平和を望むならば戦いに備えよ」
      という古代ローマの軍学者の言葉に尽きる。
      即ち、我が国は、今こそ、
      平和のために戦う覚悟をせねばならない時にきている。

      現在、北朝鮮の核ミサイルだけがクローズアップされて、
      中共の核ミサイルやロシアの核ミサイルのことには目が閉じている。
      しかし、既に見てきたように、我が国にとって、
      既に実戦配備されている中共の核ミサイルやロシアの核ミサイルが、
      北朝鮮の開発中の核ミサイルに勝る現実的脅威なのだ。
      従って、我が国は、
      ソ連が突きつけてきた中距離核弾頭ミサイルであるSS20に対して、
      同じく核弾頭ミサイルであるパーシング兇鯑佑つけて、
      「相互確証破壊」の体制を構築して対抗した
      一九七七年九月の西ドイツ首相のシュミットのように、
      X・Y・Zの核弾頭ミサイルに対抗する核弾頭ミサイルを
      X・Y・Zに向けて配備する必要がある。
      同時に、敵ミサイル基地撃破能力と敵ミサイルの迎撃能力を
      保持しなければならないことは、もちろんのことである。

      このようなことは、憲法上できない、
      というのが「戦後体制」であることは分かっている。
      同時に、
      憲法を守って国が滅びて多数の国民が殺されることは、
      断じて許されないこともわかっている。
      従って、いざとなれば、憲法改正など間に合わないのであるから、
      総理大臣は、
      昭和二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」は、
      占領軍が占領中に書いたものであるから無効であると宣言し、
      「日本国憲法」に拠らずに事態に対処すべきである。

      即ち、気が付けば、時代は、
      戦艦「三笠」が戦った時に、
      回帰している。
      そのとき、
      「日本国憲法」などは無いが、もしそれに基づいて日本が戦わなかったならば、
      我が国は滅ぼされ我々は日本人として生まれていなかったことは確実だ。
      この単純明快なことに目覚める時だ。

      posted by: samu | 歴史認識 | 09:59 | - | - | - | - |
      中学校の歴史教育で、「聖徳太子」が復活/藤岡信勝
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        中学校の歴史教育で、「聖徳太子」が復活した。文部科学省が2月に公表した中学校の次期学習指導要領改定案で、現行の「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」に変更したことについて、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが関係者への取材で分かったとして、20日付けの産経新聞が伝えた。

         2月14日、改定案が公表されてから、私たち「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーは直ちに行動した。役員会を開き、断固として闘うことを決定した。理事で、この問題の専門家である高森明勅氏を講師とする検討会を開いた。私は産経新聞に依頼して、正論欄に書かせてもらった。何年ぶりだろうか。「聖徳太子を抹殺する指導要領案」と題する拙文は、2月23日付けの産経新聞に載った。櫻井よしこ先生も、『週刊新潮』にこの問題を書いて下さった。

         つくる会は声明文を作成し、FAX通信で流した。ネットからこの件について意見を書いている人の文章を借用して、資料集を作った。パブリックコメントをするときの参考資料である。国会議員に対しては、会の声明、高森氏の解説文、資料集をセットにして封書で送...った。こうした働きかけもあって、心ある人々は一斉に動き出した。

         聖徳太子以外のその他の問題、公民的分野の問題もある。それらを含め、あらためて会の見解をもう一度まとめ、3月7日、文科大臣に申し入れた。そのあと、文科省記者クラブで記者会見を行った。朝日の記者は熱心に質問したが、翌日の朝刊で記事にしたのは産経だけ。「つくる会『聖徳太子守れ』 指導要領案変更取りやめの要望」という見出しがついていた。産経は社説でも、聖徳太子問題を取り上げていた。

         3月15日、文科省のパブリック・コメントが終了した。その直後から16日までの間に、文科省が歴史用語の変更は断念したらしいとの情報を私は得ていた。22日には自民党の文科部会が行われる。この場に文科省の担当者を呼んで、問い詰めることになっていた。新聞はこの時の文科省側の回答をもとに記事にするだろうとよんでいた。それより一足先に報道された。ともかく、この問題で行動し協力したすべての方々に心よりお礼を申し上げる。ありがとうございました。、

         ただ、産経の記事で気になるところがある。「文科省は小中ともに聖徳太子の表記に統一し、中学では日本書紀や古事記に『厩戸皇子』などと表記されていることも明記する方向で調整している」と書かれている。歴史上の特定の人物の呼称について、出典まで引用して別の呼称も書くように学習指導要領で強制するのはかつて例がなく、話が細かすぎる。文科省は未練がましく「厩戸」の文字をどうしても残したいようだ。日本国家誕生の物語を否定する将来の改訂の足がかりを残そうとしているかのようで、賛成できない。この話は朝日新聞にも出ているから、文科省側から意図的にリークしたのかもしれない。

         このほかにも、目標の記述の仕方や、公民的分野の問題はどうなるのか、3月末の文科大臣告示で公表される改訂学習指導要領から目が離せない。

        posted by: samu | 歴史認識 | 17:47 | - | - | - | - |
        中学校の歴史・公民教育/藤岡信勝
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          つくる会が文科大臣に提出した要望書の全文です。聖徳太子以外の問題点と、公民的分野の問題点にもふれています。(以下、引用)

                             平成29年3月7日
          文部科学大臣 松野 博一 殿

          新しい歴史教科書をつくる会

          中学校の歴史・公民教育は、教科・分野の目的に立ち返って見直して下さい
                −学習指導要領改訂案に関する要望書−

          ●はじめに
          文部科学省は2月14日、次期の小・中学校用学習指導要領改訂案を公表しました。3月14日まで国民からのパブリック・コメントを求め、3月末までには最終版を確定するとのことです。当会は中学社会の歴史及び公民の教科書の改善を推進してきましたので、その立場からこの両分野について以下の見解をまとめ、文科大臣に提出いたします。なお、個別の項目に関しては、別にパブリック・コメントとして提出します。

          ●歴史教育を破壊する「聖徳太子」の抹殺
          指導要領案は、中学社会歴史的分野の「内容の取扱い」の項で、「厩戸王(聖徳太子)」と書くように指示し、日本の歴史上最も重要な人物とさえいえる「聖徳太子」の名前をフェイドアウトさせる方針を示しました。これは小学校とも連動した一貫した方針で、小学校では「聖徳太子(厩戸王)」として、小学校段階から「厩戸王」の呼称に慣れさせようとしています。

          歴史学界の一部では、約20年前に「聖徳太子虚構説」なる学説が唱えられました。しかし今日では、その説は学問的に否定されて過去のものとなっています。戦後の古代史学界では「大化の改新はなかった」という学説など、「なかった説」が時々提唱されては消えてゆくというケースが見られました。「聖徳太子はいなかった」という説もそのような運命をたどろうとしているとき、これを学習指導要領公認の学説として全国の教育機関に押しつけるとは信じがたいことです。          

          なぜこのような変更をするのか、その理由を文科省は説明していませんが、以下の批判に答える形で、聖徳太子の名前(次いで実体)を抹殺する理由を明確に説明していただきたいと思います。

          世上、聖徳太子を抹殺する理由として、聖徳太子という名は100年後に創作されたものであり、だから聖徳太子なる人物は実在しなかったと主張されています。しかし、歴代天皇の御名は漢風諡号という謚(おくりな)で呼ばれるのが慣例であり、虚構論の筆法では歴史上のすべての天皇が存在しなかったということになります。

          このように、論理的に破綻し学術的にも論破された学説が一部でもてはやされるのは、この学説が日本の古代史の骨格を解体し、聖徳太子を民族の記憶から消し去ろうとする反国家的メンタリティに親和的だからではないでしょうか。実際、律令国家形成の出発点となった聖徳太子を抹殺すれば、日本を主体とした古代史のストーリーはほとんど崩壊します。

          学習指導要領は歴史学界の一部の空気に従う必要など全くありません。仮に歴史学界の学説がどのように展開しようと、歴史教育は国民としての自覚(ナショナル・アイデンティティ)を育てることを目的とし課題とする仕事であるからです。

          以上の理由で、指導要領改訂案にある聖徳太子の扱いは従来通りとして下さい。

          ●聖徳太子を消した特定の教科書に追随する指導要領改訂案
          ここでさらに問題点として指摘しておきたいのは、指導要領の新方針は、驚くべきことに、最も左翼的と見なされる歴史教科書が実行していることに追随し、追認するものとなっていることです。

          現行版の歴史教科書のうち、学び舎の教科書は、大きな文字で「厩戸皇子」という見出しをつけています。聖徳太子の肖像もなく、一方で隋の皇帝煬帝(ようだい)の肖像画はしっかり掲載されています。この教科書は今回の文科省の方針を先取りしていたといえます。これを今後は文科省の方針として、しかも「厩戸王」という呼称で押しつけられます。ついでに言えば、学び舎の教科書が平成27年に検定に合格したことについて、教科書検定審議会歴史小委員会の委員長をつとめた上山和雄氏は、「学習指導要領の枠に沿っていない」と評価し、政治的な配慮で特別に合格とされたことをにおわせています(朝日新聞、平成27年4月24日)。しかし、「学習指導要領の枠に沿っていない」教科書は本来検定不合格となるべきものです。学び舎教科書の合格をめぐる疑惑を、この際改めて問題にせざるを得ません。

          「日本を取り戻す」ことをうたって登場した安倍政権のもとで、学び舎の教科書で展開された反日的な国家否定の歴史観が教育行政にも入り込んでいることは、国民にとって重大な警告です。

          ●民族の言葉を放逐する「歴史用語革命」の危険
          学習指導要領案の歴史的分野には、このほかにもいくつかの問題点があります。
          第一に、「聖徳太子」以外にも、「大和朝廷」、「元寇」、「鎖国」という歴史用語が駆逐の対象となりました。文科省は、今回の改訂で、日本民族の重要な語彙の一部をなしてきた歴史の伝統的な用語を人工的・外科手術的に削除する、「言葉狩り」あるいは「歴史用語革命」とでもいうべき路線に踏み出したようです。これはゆくゆく、歴史の共有という点で世代間の断絶をもたらす由々しい結果を招くでしょう。この「革命」はとりあえずやめておくべきです。

          第二に、目標記述の混濁化と改悪が見られます。今回、歴史的分野の目標に前書きのようなものが付けられ、「グローバル化する国際社会」という現状認識が語られています。しかし、この認識はすでに時代遅れで、世界は今やグローバル化の抑制とナショナリズムの興隆に向かっていることは誰の目にも明らかです。そもそも、時事評論的な特定の現状認識を学校の教科や分野の目標の中に持ち込むことが根本的な間違いです。歴史教育は本来の目的に即して充実させていくべきです。また、従来の4目標を3目標に縮約したため、一つのアイテムにあまりに多くのものを盛り込みすぎており、焦点のわかりにくい混濁した目標と化しています。特に、従来の目標の第1項の末尾が、「我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を育てる」という明快な表現を、長い一文の途中に押し込め、最後の締めくくりを「国際協調の精神を養う」としたのは、重大な改悪です。歴史教育の目標は現行版に戻すべきです。

          第三に、個々の部分でも、いろいろと問題があります。その一つは、「市民革命」について、初めて欧米の国名を挙げて取り上げるべき素材を例示したのですが、そこで挙げられているのはアメリカの独立革命とフランス革命であり、日本の近代立憲君主制の見本となったイギリスの市民革命が抜けています。自由主義的な市民革命観を脇に置いて、暴力革命を礼賛するかのような市民革命観を称揚する危険があります。また民主主義が強調され、ギリシャから日本の戦後の「民主化」まで筋を通そうとしているようですが、ここにも上記と共通する傾向が読み取れます。

          ●公民教育に「家族」「地域社会」「公共の精神」を入れることを求める
          公民的分野の改訂案については、大きく評価できる点があります。内容Dには「領土(領海,領空を含む。)、国家主権、国際連合の働きなど基本的な事項について理解すること」と記されています。同じ文言が現行版でも「内容の取扱い」部分にありますが、「内容の取扱い」から「内容」に昇格したのです。また、改訂案では、北方領土、竹島、尖閣が明記されました。これらの変更は、国家主権と領土に関する教育を重視しようとする動きとして歓迎します。

          しかしながら、冒頭の「1目標」には、新たに「グローバル化する国際社会」という文言が登場しました。歴史的分野のパートでも指摘しましたが、グローバリズムの時代から各国の国家主権が角逐するナショナリズムの時代へ世界全体が動きつつあるように見える今日、周回遅れの文言には違和感を感じざるを得ません。

          このグローバリズム礼賛の姿勢と関連するのでしょうが、今回の改訂案を見ると、公民教育には、家族論や地域社会論、そして社会形成の基礎となる「公共の精神」についての教育は不要であると文科省は考えているようです。平成23年の東日本大震災を経験した日本国民は、地域社会と家族の大切さ、公共の精神の重要さについて改めて感じるところがあったはずです。にもかかわらず、指導要領案には「家族」「地域社会」「公共の精神」という3つの言葉は全く存在しないのです。

          しかし、振り返れば、平成10年版指導要領までは、必ず「家族」「地域社会」という言葉が存在しました。平成10年版では「家族や地域社会などの機能を扱い、人間は本来社会的存在であることに着目させ」と記されていました。また、平成18(2006)年、教育基本法が改正され、第2条「教育の目標」で「公共の精神」と「郷土を愛する」ことが謳われました。また、第10条,任蓮嵒稱譴修梁召諒欷郤圓蓮∋劼龍軌蕕砲弔い涜莪豕租責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせる」と規定され、改めて家族の重要さが確認されました。

          従って、改正教育基本法に則る立場から、とりわけ改訂指導要領案の2箇所を次のように修正することを要望します。下線部は修正箇所です。

          1、目標(3)に「公共の精神」を入れること
          「(3)現代の社会的事象について,現代社会に見られる課題の解決を視野に、公共の精神に基づき、主体的に社会に関わろうとする態度を養う……」  

          2、内容A「(2)現代社会を捉える枠組み」のアの(イ)に「家族」「地域社会」「公共 の精神」を入れること
          「(イ) 家族や地域社会などの機能を扱い、人間は本来社会的存在であることに着目させ、公共の精神、個人の尊厳と両性の本質的平等,契約の重要性やそれを守ることの意義及び個人の責任について理解すること。」

          私たち「新しい歴史教科書をつくる会」は、以上のことを文科省に強く要望し、さらに状況によって行政担当者との公開討論を要求します。教育は国家百年の計にかかわる重要問題です。文科省はこの度提示した新たな政策について、国民への説明責任を果たさねばなりません。 (以上)

          posted by: samu | 歴史認識 | 09:08 | - | - | - | - |
          「 なぜ日本史から聖徳太子を消すのだ 」櫻井よしこ
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            『週刊新潮』 2017年3月9日号
            日本ルネッサンス 第744回

            聖徳太子は、その名を知らない日本人など、およそいないと言ってよいほどの日本国の偉人である。だが、文部科学省が2月14日に突然発表した新学習指導要領案によれば、その名が子供たちの教科書から消されることになりそうだ。
             
            聖徳太子は新たに「厩戸王(うまやどのおう)」として教えられるというが、神道学者の高森明勅氏が「厩戸王」の事例をアマゾンで調べたところ皆無だったと書いている。皆が親しんできた名前を消して、殆ど誰も知らず、アマゾンでも一例も出てこない名前に変えるとは、一体どういうことか。名は体を表す。聖徳太子という英雄を日本民族の記憶から消し去ろうとする愚かなことを考えたのは誰か。
             
            周知のように聖徳太子は数え年20歳で叔母、推古天皇の摂政となった。現代風に言えば成人前後の年頃の青年が日本国を主導する総理大臣に就任したのである。その若さにも拘わらず、英邁なる聖徳太子は責任をひとつひとつ立派に果たした。
             
            神道の神々のおられるわが国に、異教の仏教を受け入れるか否かで半世紀も続いた争いに決着をつけ、受け入れを決定したのが聖徳太子である。キリスト教やイスラム教などの一神教の国ではおよそあり得ない寛容な決定である。
             
            603年には「冠位十二階」を定めて、政治権力の世襲という従来の制度下にあっても、個人の能力や努力によって登用される道を開いた。これは後の世にも強い影響を与え、身分制度を超越した人材登用の精神につながった。
             
            604年には「十七条憲法」を定めて、政治は民の幸福を願い、公正で透明な価値観に基づかなければならないという日本国統治の基本を作った。民を想う穏やかで慈悲心に支えられた統治の哲学は、同時代を生きた隋の皇帝煬帝の、幾十万の民を奴隷として酷使し死に至らしめた非情なる統治の対極にある。

            価値観の源流
             
            607年には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや」という、あの余りにも有名な親書を小野妹子に持たせ、隋に派遣し、遂に隋と対等な関係を築いた。
             
            以降、日本は中華文明に属することなく、日本独自の大和文明を育んだ。大和文明はその後、天武天皇に受け継がれ、聖武天皇によってより強固な日本統治の基本となった。いま、日本と中国の価値観はおよそ何から何まで正反対だ。私たちは、日本が日本であることに、もっといえば中華的価値とは全く異なる日本的価値の社会で暮せていることに感謝しているのではないか。その価値観の源流が聖徳太子である。
             
            中国は軍事力、経済力で既存の国際法や世界秩序に挑戦し続けている。国際法を中国式に解釈し、覇権国の道を一直線に突き進む。国内においては政府批判を許さず、人々の自由を制限し、弾圧し、国家統治における不法、不公正を基本的に放置したままだ。
             
            この異形の大国、中国と、私たちはいま、価値観を軸に対峙しているのではないか。であればこそ、日本の子供たちに日本文明の核を成す価値観を教えることが日本人として誇りを持って生きることの基本になる。日本文明を理解し、その長所を心に刻み、相手に対する思いやりを育み、日本人としての自信を深めることが欠かせない。そのために聖徳太子は忘れてはならない人物である。
             
            だが、文科省は、わが国の国柄を形成するのに計りしれない貢献をした聖徳太子の名を変えるというのである。理由は「聖徳太子」は没後に使われるようになった呼称で、歴史学では一般的に「厩戸王」と呼ぶ、従って「史実」を正しく教えるために変えるのだと説明する。ならば歴代天皇の呼称もすべて変えなければならない。聖徳太子だけ突然、変えるのはおかしい。
             
            また2月27日に「産経」が社説で書いたように、諡(おくりな)(死後に与えられる名)がダメなら「弘法大師」の名前も変えなければならない。そんなことをすれば子供たちだけでなく大人も社会も日本は大混乱だ。歴史の語りつぎも出来ようはずがない。
             
            自民党参議院議員の山田宏氏が指摘した。

            「聖徳太子は日本が中国の属国にならない道を選び、慎みと思慮深さを基盤とした日本の国柄を育む第一歩を踏み出した人物です。そうした日本の善さを定着させた人物でもあります。だからこそ、日本人は聖徳太子に尊敬と親愛の情を抱き、お札にまでしたのです。日本人の誇りの源泉である太子の名を消し去って、その誇りを薄めていく狙いがあるのではないでしょうか」

            文科省は伏魔殿か
             
            文科省の作った教育の枠組みの中で、長い年月、日本史は片隅に追いやられていた。ようやく2020年から、小、中、高と、学習指導要領が改訂されるが、高校の日本史は現在、選択科目にすぎない。必修科目は世界史なのだ。日本の子供たちは小学校6年生で初めて日本史を教えてもらう。それも1年間で45分の授業を68時限である。これではスカスカの歴史教育にならざるを得ない。スカスカ教育の上に、慰安婦や南京事件の例に典型的に見られるような、捏造され曲解された内容が跋扈したのである。
             
            アーノルド・トインビーは、自国の神話、即ち歴史を忘れる民族は滅びるという言葉を残しているが、日本では忘れる以前に満足に教えてもらえない時代が長く、今日まで続いているのである。
             
            左派陣営に蹂躙されてきたこの反日教育が幾世代も続いた末に、安倍晋三氏が首相に、下村博文氏が文科大臣になって以後、ようやく改善されてきたと思っていた。だが、いままた、日本を貶める意図しか見えてこないような学習指導要領が、突如、提案されている。文科省は伏魔殿か。根っからの反日組織か。
             
            山田氏が語った。

            「文科省の官僚も問題です。加えて教科の内容に特定の人々の意見を反映させる仕組みがあります。文科省の下に国立教育政策研究所が、その下に教育課程研究センターがある。同センターには調査官がいて、社会と歴史について、各々、小学、中学担当の調査官が配置され、彼らの意見が反映されると見られています。どんな人物が配置されているのかも、調べる必要があるでしょう」
             
            かつて元インド大使の野田英二郎氏が教科書検定審議会委員となり特定の教科書を排除すべく多数派工作をした。氏は北朝鮮のテポドンミサイル発射実験に抗議したと、或いは北朝鮮の拉致疑惑を強調しすぎると日本政府を非難した人物だ。偏った人物を受け入れる素地が文科省にはあるのだ。ひとまず、私たちは文科省に聖徳太子を厩戸王へと変えることへ抗議しようではないか。

            posted by: samu | 歴史認識 | 11:58 | - | - | - | - |
            「 今上陛下が研究、光格天皇の功績 」櫻井よしこ
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              『週刊新潮』 2017年2月9日号
              日本ルネッサンス 第740回

              1月24日、「産経新聞」1面トップのスクープが心に残っている。約6年半前、天皇陛下がご譲位の意向を示された当時、光格天皇の事例を調べるよう宮内庁側に指示なさったという内容だった。
               
              光格天皇は今上陛下の6代前、直系のご先祖である。譲位をなさった最後の天皇で、現在の皇室と天皇の在り方に画期的な影響を及ぼした。その生涯を辿ることは、安倍政権の大きな課題であるご譲位問題を考えるのに大いに参考になるだろう。
               
              光格天皇に関して教えられるところの多いのが東京大学名誉教授、藤田覚氏による『幕末の天皇』(講談社学術文庫)だ。光格、孝明、明治の三天皇について記した目的を、氏は「天皇・朝廷は、幕府からも反幕府勢力側からも依存されうる高度な政治的権威を、いついかにして身に着けていったのであろうか。そこのところを考えてみようというのが、本書の主要なテーマ」だとしている。
               
              三代の天皇中、最も注目されるのが明和8(1771)年に生まれ、天保11(1840)年に数え年70歳で亡くなった光格天皇である。天皇在位39年、譲位後は上皇、院として23年、都合62年間君臨した。昭和天皇の在位64年に匹敵する長い期間を通して、光格天皇は闘い続けた。藤田氏は以下のように描いている。

              「ときに江戸幕府と激しく衝突しながら、なおその主張を貫こうとする強靱な意志の持ち主」、「ようよう本格的な曲がり角を迎え、腐朽しはじめた江戸時代の政治的、社会的状況のなかで、天皇・朝廷の復古的権威の強化を積極的にはかり、きたるべき激動の幕末政治史のなかで、天皇・朝廷がその主役に躍りでる基礎的条件を主体的に切りひらいていった」
               
              光格天皇を駆り立てた要因のひとつに、天皇即位に至る事情があるだろう。安永8(1779)年、後桃園(ごももぞの)天皇は、夏から病んでいたが、10月になって容体が急変し、29日に急逝した。22歳の若さで、後に残されたお子は幼い女児1人だった。
               
              そこで9歳の祐宮(さちのみや)、後の光格天皇が急遽、後桃園天皇の養子となって皇統を嗣いだ。幼い天皇の父は閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王。閑院宮家は宝永7(1710)年創設の「新しい宮家」だ。

              強い皇統意識
               
              その存在は江戸時代にどう評価されていたのだろうか。藤田氏は江戸時代に実際にあった朝幕間の紛争事件を題材にした『小夜聞書(さよのききがき)』という書物を次のように引用している。

              「当代の主上(天皇)は、閑院典仁親王の御末子にて、先帝後桃園院御不例(ふれい)の時に御養子になされ、程なく践祚(せんそ)ましましける、よって御血筋も遠く相なりし故に、諸人軽しめ奉(たてまつ)るには非ずといえども、何やらん御実子の様には存じ奉らず、一段軽きように存じ奉る族(やから)もこれありけり」
               
              9歳の幼さとはいえ、このように自分を軽んずる空気を光格天皇は直感したことであろう。若き天皇に、前の前の天皇で上皇となっていた後桜町院が学問に打ち込むよう勧めた。天皇は熱心に学問に打ち込み、18歳までに、「自ら朝廷政務を主宰」する程の立派な青年天皇に成長した。光格天皇の英邁さが窺われる。
               
              そこに追い風が吹いた。光格天皇の生まれた明和8年は日本全体が伊勢神宮への「おかげ参り」の熱に染まり、数百万人がお伊勢さんに押し寄せた年でもある。それに似たような、京都御所の周囲を人々が廻り続ける「御千度(おせんど)」という現象が起きたのが光格天皇17歳の頃、天明7(1787)年だった。ピーク時には約7万人ともいわれる人々が「浮かれ出」て御所の周囲を廻り続けた。
               
              天明の飢饉で米価が高騰し、生活苦が深まる中、人々は町奉行所に頼んでも埒が明かない事案について天皇に救済を祈願した。
               
              天皇はこの機を逃さず、幕府に窮民救済の異例の申し入れをした。藤田氏の文章を引くと、こうなる。

              「朝廷側には、おずおずというかおそるおそるという態度がありありと見える。それもそのはずである、飢饉で飢えて苦しんでいる民衆を、なんとか救済するようになどと朝廷が幕府に申し入れるなど、かつてなかったからである。(中略)まさに異例中の異例である」
               
              天皇主導の申し入れに関しては偽文書も飛び、尾ひれがついて「窮民救済に奔走する朝廷と及び腰の幕府」という図式が生まれ、広く庶民の知るところとなった。民は明らかに朝廷を支持し、その支持の高まりの中で、天皇は君主としての意識を強めていった。
               
              光格天皇はまた強い皇統意識の持ち主でもあった。幕府の威光の下で軽視されていた天皇の権威を高めるために次々と手を打った。長く中断されていた神事を再興し、古来の形式を復古させた。新嘗祭がその一例だ。現在は勤労感謝の日などとされているが、これは天皇が新穀を神に捧げ、自らもこれを食する儀式であり、宮中祭祀の中で最も重要なものとされている。

              天皇像を模索
               
              神事再興にとどまらず、御所を平安時代の内裏に則って造営することを光格天皇は願った。天明8(1788)年に京都を襲った大火で御所は灰燼に帰したが、天皇はその機をとらえた。紫宸殿や清涼殿などを荘厳な形に復古すべく、内裏造営計画を立てて幕府に要請した。財政難もあり、渋りに渋る幕府に朝廷は迫り続け、最後には要求を通したのである。
               
              その先に天皇の実父への尊号宣下問題が生じた。光格天皇は父の閑院宮典仁親王に太上天皇の称号(尊号)を贈ろうとしたが、尊号は譲位した天皇に贈られるものだ、典仁親王は天皇の位にはついていない、幕府は光格天皇の願いは「親子の恩愛」ではあっても「道理がない」とし、「なお再考を求む」と回答した。
               
              そのとき光格天皇は思いもよらない挙に出た。当時、政務に携わる公家は五摂家に限られていたが、その範囲を超えて広く41人の公卿に勅問(天皇の質問)を下した。

              「異例の公卿群議」で圧倒的な支持を得た天皇は、それを背景に幕府に尊号宣下の実現を要請した。結論から言えば、幕府の主張が通ったのだが、藤田氏は一連の経緯について「異例のやり方」と書いている。
               
              光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。
               
              藤田氏が書いたように、光格天皇と今上天皇の共通項は、お二方共にご自分なりの天皇像を築かなければならなかったという点であろう。象徴天皇とは何か、その点を模索され続けた今上陛下のお言葉を、改めて深く心に刻み、考え続けるものである。

              posted by: samu | 歴史認識 | 17:23 | - | - | - | - |
              「 歴史戦争に勝つには真実しかない 」櫻井よしこ
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                『週刊新潮』 2017年1月19日号
                日本ルネッサンス 第737回

                今年、日本が直面する大問題のひとつに、中韓両国の国民が第2次世界大戦中に強制連行され苛酷な労働を強いられたとして、日本企業に個人賠償を求めて起こす訴訟がある。
                 
                昨年12月6日、中国人27人が、北京の第三中級人民法院(地方裁判所)に、第2次大戦中の強制動員と苛酷な労働に対して、謝罪と1人100万元(約1600万円)の賠償を求めて鹿島を訴えた。中国における鹿島への訴えは初のケースだ。
                 
                中国が訴えを受理するか否かはまだわからない。受理なら、それは中国共産党政権に、日本追及の明確な意図があると考えてよいだろう。中国には三権分立の思想も制度もなく、政治が司法の上位に立つため、裁判になれば鹿島の勝ち目は少ないと思われる。
                 
                中国ではすでに同様の理由で三菱マテリアルが訴えられ、昨年6月1日、同社は裁判を避けるため、原告の一部を残して和解に応じた。三菱マテが妥協し、謝罪し、資金の提供などに応じた和解に、中国人側代理人は「心からの敬意」を表し、中国人原告団を支援した日本の左翼系団体は「強制労働問題の解決の模範」と絶賛した。つまり、日本側から見れば完全な敗北と言える内容だった。
                 
                強く押せば日本側は屈する。三菱マテの和解は中国側にそう確信させたであろう。鹿島を訴えた中国人原告団の代理人、康健弁護士は、「鹿島訴訟の原告の1人は三菱マテの和解を知って名乗り出た」と語っている。恐らくもっと広がっていくであろう中国人による対日企業訴訟は、三菱マテの和解が端緒なのだ。
                 
                三菱マテの裁判で、中国人原告の代理人をつとめた平野伸人氏が、中国での訴訟は、実は韓国での訴訟から学んだ結果だと分析しているように、対日企業訴訟で中韓両国は緊密に連携している。
                 
                日韓間の問題は、1965年の日韓基本条約によって全て解決済みである。日中間では72年の日中共同声明で個人の請求権も含めて解決されている。にもかかわらず、韓国では日本企業に対する訴訟が相次ぎ、韓国最高裁も2012年に個人の請求権はまだ有効だと判断した。結果、15年4月21日までに三菱マテを含む日本企業72社に未払い賃金など、1人1000万ウォン(約97万円)を求める裁判が起こされた。

                4代にわたる怨恨
                 
                日本企業を訴える背景には、戦時中に日本が労働者を強制連行或いは強制動員し、奴隷的労働を強いて、逃亡させないように監視していたなどという主張がある。だがそのような主張を一蹴し、真実を知る一助となる本がある。朝鮮人の鄭忠海(チョン・チュンヘ)氏が1990年に出版した『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版)である。著書は朝鮮半島の人々の日本観の厳しさを含めて、多くを教えてくれる。
                 
                鄭氏は19歳でソウルのキリンビールで働き始め、翌年、福本コンクリート工業所に就職した。結婚し2児の父親となった氏は、1944年の冬の「徴用令状」で「強制動員」された。同年12月11日に広島の東洋工業に配属されたとき26歳、約10か月を日本で過ごし、原爆を免れ帰郷した氏が、日本滞在を振りかえったのがこの『手記』だ。
                 
                全篇を通じて伝わってくるのは、氏の祖国愛と、その裏返しとしての日本に対する強い敵愾心である。1945年3月に入ると東京大空襲があり、その後大阪も焼き尽された。そのとき氏は書いた。

                「我々(朝鮮の徴用工)が無言の中に密かに願っていた大空襲だ」「期待して見るだけだが、燃やしてしまえ、早ければ早いほどよい」「東京がみんな焼けてしまったり、大阪がなくなったということは我れ関せずであるが、痛快というばかりだ」
                 
                空襲で無数の無辜の民が犠牲になったことを「哀しい」としながらも、「対岸の火事」だと言い切る。氏の日本観は「親子4代にわたる怨恨」であり、氏の著書が出版された90年、戦後45年になっても怨恨は晴れないと書いている。このように厳しい対日観を有する人物が「強制動員」について書いた内容は、逆の意味で大きな驚きである。
                 
                家族とは再び生きて会うことはないと覚悟してやってきたが、東洋工業の受け入れ体制は想像以上に手厚かった。釜山港から博多港に、博多駅から列車で広島に向かう鄭氏のそばに「会社の野口氏が来て座り」「長距離の航海、長時間の汽車旅で非常にお疲れでしょう」と労(ねぎら)った。
                 
                軍が、抵抗する人々を殴りつけ、拘束し、或いは逃亡防止で厳しく監視して引っ張ってくるという、中国人や韓国人、彼らを支援する日本の左翼系の人々が主張する強制連行のイメージとは全く違う。

                「連絡船に乗ってから、会社側では我々に不便がないようにいろいろ気遣ってくれていた。好感を得たいためか、我々には思いがけないサービスをしてくれた。いずれにしてもありがたいことだ」とも氏は書いた。
                 
                向洋(むかいなだ)の東洋工業では、海岸近くに木造新築2階建の寄宿舎があり、20畳の部屋に徴用工用の絹製の清潔な寝具が10人分用意されていた。

                日本企業の公平さ
                 
                食事は「思いのほか十分で、口に合う」だけでなく、集団生活の中で、彼らは夕食後に度々宴会を開いた。みかんやネーブル、なまこやあわび、さらに酒まで出た。一方仕事は「日課が終わった後には何もすることがない」といった状況で、遂に鄭氏は「何にもならない訓練だけ」が続くと贅沢なぼやきをもらしている。
                 
                日本企業が徴用工に極めて真面目に向き合っていたのは明らかだ。東洋工業は鄭氏らに第1工場から第11工場まで全体を見学させ、工場で生産する99式小銃を完成させるのに、鄭氏らの作る部位がどのような意味と重要性を持つかを理解させようと努めている。朝鮮人に対する差別意識などうかがえず、日本人と全く同じ扱いではないか。
                 
                差別がないといえば、工場で働く女子挺身隊の若い女性たちも同様だった。日本の若者たちが出征していった中で、一群の若い朝鮮人男性たちが一躍人気者となっている。鄭氏は2児の父でありながら日本人女性と恋に落ちた。女性の側にも差別意識がなかったということであろう。

                軍と企業の差も鄭氏は独特の視点で描き出している。1945年3月のひと月間、氏は軍令によって奈良県の西部国民勤労訓練所で教育を受けた。この間は食事の量も質も「死なない程度の最低」で、規律は厳しく、勝手に外出してあわびや酒で宴会するなど許されなかった。日本軍の規律の厳しさとともに、彼らを社員として受け入れた日本企業の待遇の公平さが、巧まずして鮮やかに描かれている。
                 
                いま私たちが中韓両国民、日本人、そして世界に知らしめていくべきはこうした真実の数々である。真実の力をもって、中韓の対日企業訴訟に打ち勝つ決意が大事である。

                posted by: samu | 歴史認識 | 09:39 | - | - | - | - |
                大陸の実態を認識することは死活的に重要だ/西村眞悟
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                  先に、朝鮮(北朝鮮と韓国)に関して、その対処の仕方を、
                  福沢諭吉翁が明治十八年に公にした「脱亜論」に還って、
                  その方針に基づいて行うべしと記した。
                  しかし、その「脱亜論」は、
                  単に朝鮮だけではなく「支那と朝鮮」に関する論である。
                  つまり、我が国の隣にある支那・朝鮮という
                  「中華意識という自己陶酔に陥った地域」のことを一括して論じたものである。
                  従って、ここで、
                  明治維新を経た我が国が、国際社会の中で国策を決定してゆくに当たって、
                  この地域に関して如何なる知見を持つに至ったか、
                  その「知の蓄積」を概観したい。
                  何故なら、我が国が日華事変から大東亜戦争に至る道程において
                  敗北したおおきな要因は、
                  この地域に対する国策、つまり大陸政策の失敗にあると思うからである。
                  さらに、驚くべきことであるが、
                  大東亜戦争後においても!
                  我が国は、この同じ大陸政策の過ちを繰り返してきたのである。
                  それは、次の「現在の結果」を見れば明らかではないか。

                  支那に対して、我が国は、
                  昭和四十七年の日中共同声明そして五十三年の日中平和友好条約以来、
                  「日中友好」を掲げて巨額な援助を続けてきた。
                  その結果、現在、
                  世界中で、最も反日的かつ暴力的な軍事大国が中共である。
                  韓国に対して、我が国は、
                  昭和四十年の日韓基本条約締結以来、巨額の資金を供与し、
                  そのお陰で韓国は飛躍的な経済発展を遂げた。
                  その結果、現在、
                  韓国大統領は「日本に対する怨みは千年たっても消えない」と言い放ち、
                  韓国人によって、在韓国日本大使館と領事館の前やニューヨークの街中に、
                  我が国を辱める慰安婦像が設置されている。

                  なるほど、戦前の帝国陸軍や戦後の外務省には、支那・朝鮮に関する優秀な専門家が多数養成されていた。
                  彼らは、地政学的な情報や食糧事情や経済状況に関する分析においては優れた知見を持っていた。
                  しかし、彼ら専門家は、当該民族の本質や特性などの解明と
                  その知見に基づく国策決定に関しては、戦前も戦後の現在も、無能である。
                  彼らは、支那と朝鮮に対して、戦前戦後を問わず、
                  「脱亜論」にある次の認識と結論とは正反対の対応をして共に国策を誤っているのである。

                  (支那と朝鮮は)一より十に至るまで、外見の虚飾のみを事として、
                  その実際においては、真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払うて、
                  残刻不廉恥を極め、なお傲然として自省の念なき者の如し。
                  ・・・その支那朝鮮に接する法も、隣国なるが故にとして特別の会釈に及ばす、
                  まさに西洋人がこれに接する風に従って処分すべきのみ。

                  戦前も戦後の今日も、
                  この福沢諭吉の認識と結論に従って国策を決定すべきであった。
                  そもそも、相手の本質と特性を観ないで「援助」してはならないのだ。
                  それは、その「援助」を決定した者が、
                  自分の懐からその「援助(金)」を支払っておれば当然そうしたであろう。
                  しかし、この度の我が国からの
                  数人の韓国人老売春婦の為の十億円の支払いも
                  中共に対する数兆円の支払いも、
                  総て、その支払いの決定をした者がその金を支払わないから、
                  同じ過ちを他人事のように繰り返してきたのだ。
                  そして、その過ちを繰り返した者は人事異動でどこかに行方をくらます。

                  しかし、過ちを改めるに、今からでも遅くはない。

                  脱亜論の前と後とに、期せずして顕れた正しい国策決定の指針とも言うべき、
                  三人の論考を次ぎに掲げる。その三人とは、
                  情報将校の草分け福島安正中佐(後、大将)、
                  孫文らの目指した支那革命の支援者内田良平、
                  そして文学者魯迅である。
                  百年前に彼らが言ったことは、
                  現在にも通用する。
                  何故なら、支那と朝鮮は何も変わっていないからだ。

                  (1)福島安正中佐は、英仏独露支の五カ国語を自由に操り
                  会話だけならさらに数カ国語を操った。
                  明治十二年、清国偵察を行い、
                  十年後のドイツ駐在武官の後、シベリアを単騎横断して日本に帰着して欧州社会を驚かした。
                  彼は清国偵察の後、「隣邦兵備略」をまとめ次のように報告する。

                  清国の一大弱点は公然たる賄賂の流行であり、
                  これが百害の根源をなしている。
                  しかし、清国人はそれを少しも反省していない。
                  上は皇帝、大臣より、下は一兵卒まで官品の横領、横流しを平然と行い、
                  贈収賄をやらない者は一人もいない。
                  これは清国のみならず古来より一貫して変わらない歴代支那の不治の病である。
                  このような国は日本がともに手を取ってゆける相手ではありえない。

                  (2)内田良平は、支那の革命を目指して大陸を奔走し孫文らを物心両面で支援した。
                  しかし、多くの裏切りの中で支那社会の本質と特性を見抜いて、
                  日本人の思い込みによる支那観の危険性に気付き、
                  我が国の対支那政策が適切に行われるようにと祈念して
                  大正二年に「支那観」を世に問うた。そのなかで次の通り言う。

                  金銭万能が支那の国民性の持病となっている。
                  堂々たる政治家を自任する者にして、
                  美辞麗句とは裏腹に振る舞いは汚れ、
                  彼らの心事が巷の守銭奴と何ら変わらないのは昔のままである。

                  支那人の金銭への執着には、水火も辞さないほど猛烈な勢いがある。
                  彼らは戦闘での卑怯な振る舞いとは裏腹に、
                  弾丸雨飛のなかに飛び込み、死の危険を冒して戦死者の懐中を漁る。

                  加えて、支那人は食人族でもある。
                  支那人は詐欺を義務とさえ考えているようである。

                  (3)魯迅は、明治時代に日本に留学した支那人作家である。
                  彼は「狂人日記」の中で、支那人の食人に関して書き、
                  その末尾を人間を食ったことのない「子供を救え」という悲痛な叫びで結んでいる。

                  四千年来、絶えず人間をくってきたところ、そこにおれも、
                  なが年くらしてきたんだということが、
                  今日やっとわかった。
                  兄貴が家を管理しているときに妹は死んだ。
                  やつがこっそり料理にまぜて、
                  おれたちにも食わせなかったとはいえない。
                  おれは知らぬ間に、妹の肉を食わせられなかったとはいえん。
                  いま番がおれに廻ってきて・・・・・
                  四千年の食人の歴史をもつおれ。
                  はじめはわからなかったが、
                  いまわかった。真実の人間の得がたさ。
                  人間を食ったことのない子供は、まだいるかしらん。
                  子供を救え・・・・・・ (一九一八年四月)

                  posted by: samu | 歴史認識 | 22:57 | - | - | - | - |
                  「脱亜論」に還れ/西村眞悟
                  0

                    おぞましい感じがして気が進まないが、やはり触れねばならない。
                    朝鮮半島のことである。
                    ここは、我が国に汚物を吐き出すようなことを繰り返す地域である。
                    その地域が、
                    対馬の北の比田勝の山の上から見れば、
                    海の向こう五十キロの近くにある。そこに見える街が朝鮮半島の釜山だ。
                    国の違い、文明の違い、という観点から、
                    この対馬と釜山を隔てる海の広さを思えば、
                    それは、太平洋より広い。

                    ウソをついてはならない、ウソをつくのは悪いことだ、と子供に教える文明と、
                    ウソをついてもいい、騙される方が悪い、と子供に教える文明の距離。
                    約束は守らねばならないとする文明と、
                    約束と違うことを平気でできる文明の距離。
                    これは広大であろう。

                    朝鮮半島は三十八度線で北の北朝鮮と南の韓国に分かれている。
                    まず北の方から、
                    (1)平成十四年九月、我が国の小泉総理と北朝鮮の金正日国防委員会委員長が
                    平壌宣言を発して、双方次のことを約束した。
                    我が国は日朝の国交樹立の際には巨額の金を北朝鮮に支払う。
                    北朝鮮は核開発はしない、ミサイルの発射はしない。
                    (2)平成二十六年五月、日朝双方はストックホルムで次の合意を取り交わした。
                    我が国は北朝鮮への送金額と人的往来の制限を緩和する。
                    北朝鮮は北朝鮮域内で行方不明になった日本人や北朝鮮に拉致された日本人の調査を特別調査委員会を組織して行う。
                    しかし、
                    北朝鮮は、(1)と(2)の双方の約束を破り核実験とミサイルの発射を続け、日本人調査の特別調査委員会を解散した。
                    これに対して、
                    日本は、未だに平壌宣言を守ると言い、送金と人的往来の規制緩和を実施した。

                    次ぎに南の方、
                    (1)昭和四十年六月、日韓基本条約が結ばれ、
                    日本は韓国に、その国家予算を遙かに上回る巨額の金を渡し、
                    韓国は日本に対する請求権問題が完全かつ最終的に解決したことを確約した。
                    (2)平成二十七年十二月、日韓両国は、
                    日本が慰安婦の為に韓国に十億円を支払い、
                    いわゆる慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決したことを確認した。
                    しかし、
                    韓国は、(1)と(2)の双方の約束を破り、
                    いつまでも日本に賠償を要求し、在韓日本大使館前の慰安婦像を撤去せず新たに釜山の日本領事館前に慰安婦像を設置した。
                    これに対して、
                    日本は、金を支払い済みである。

                    以上の通り、北と南は仲良く同じ朝鮮。やることは総て同じ。こういう地域なのだ。
                    そこで、指摘しなければならないのは、
                    この地域に対する我が国の態度である。
                    我が国は、騙されても、騙されても、同じ過ちを繰り返しているではないか!
                    例えば、北との平壌宣言、
                    これは、騙されたんだから騙されたと認めるならともかく、
                    騙されたことを認めず、未だに平壌宣言を有効な約束として取り扱っている
                    我が国外務省は
                    「無能であることを決意して」、
                    「断固として無能であろうとしている」
                    としか言いようがない。
                    また例えば、南との一昨年の大晦日の
                    「完全かつ不可逆的な解決」
                    とそれに基づく十億円の支払い。
                    何度も「不可逆的」と自画自賛したように強調した外務大臣と
                    糞忙しい大晦日にあのパククネに対して電話し、
                    「心からお詫び」をした総理大臣、
                    国際社会の前で顔に汚物を塗られたようではないか。
                    よって、政府の駐韓国大使と公使の本国召喚は当然であるが、
                    国民のためにも、ちょっとはトランプ氏を見習って、
                    怒りを露わにしたらどうか。
                    また、韓国内には、
                    我が国が老売春婦の為に支払った十億円を、
                    我が国に返すという動きが出ているという報道もあるので言っておきたい。
                    我が国に金を返すなら、十億円に止まらない。
                    昭和四十年に我が国が韓国に支払った韓国の国家予算を上回る金も金利を付けて返せ。
                    即ち、韓国は、我が国から騙し取った金は総て返せ。

                    そして、最後に言っておきたい。
                    朝鮮半島が同じことを繰り返す地域であることを胆に銘じて、
                    遂に!ここに還るべし。
                    即ち、福沢諭吉翁の「脱亜論」!

                    posted by: samu | 歴史認識 | 22:59 | - | - | - | - |
                    安倍首相「真珠湾訪問」の本当の意味/門田隆将
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                      多くの意味を持つ安倍首相の真珠湾訪問だった。「和解の力」と「お互いのために」――両首脳の言葉を借りれば、そんな簡潔なものに集約されるかもしれないが、この訪問の意味は、それ以上に、はかり知れないものだったと思う。

                      日本が置かれている状況を冷静に分析すれば、今回のオバマ−安倍の「最後の日米首脳会談」は、いよいよ牙を剥(む)き出しにしてきた覇権国家・中国から日本を守るための切実なものだったことは確かだ。

                      折も折、この訪問に合わせるかのように、中国人民の“愛国の象徴”である空母『遼寧』が空母群を構成し、初めて第一列島線を突破して西太平洋に入り、デモンストレーションをおこなったのが象徴的だ。

                      南シナ海で、圧倒的な軍事力を背景に他国が領有権を主張する島嶼(とうしょ)に軍事基地を建設し、さらに虎視眈々と次なるターゲットへと領土拡張への動きを見せる中国。今回のオバマ―安倍会談で、真っ先に中国の空母群の西太平洋進出のことが取り上げられ、「注視すべき動向だ」と語り合ったことは頷ける。

                      中国の軍備拡張は、今や宇宙空間を制する、いわゆる「制天権」獲得にまで進んでいる。キラー衛星を駆使して、宇宙戦争でもアメリカを凌駕しようという並々ならぬ決意は「見事」というほかない。

                      アメリカの空母群を殲滅(せんめつ)する能力を持つと言われる対艦弾道ミサイルの急速な進歩と整備も脅威だ。しかし、そんなハード面よりさらに怖いのは、中国のしたたかな内部離間工作である。

                      沖縄から米軍基地を撤退させるための工作は、東シナ海制覇のためには必要欠くべからざるものだ。天然資源の宝庫と言われる東シナ海は、中国がどうしても手に入れなければならないものである。人民の中流化・富裕化とは、そのまま中国にとって「絶対資源の不足」を意味するものだからだ。

                      そのためには、沖縄に米軍基地が存在してもらっては困るのである。案の定、今回の安倍首相の真珠湾訪問に対する、予想どおりの非難が中国や韓国から巻き起こっている。そして、これまた“予想どおり”、そういう中国と韓国による日本への反発をつくり出してきた日本の“進歩的メディア”や人々から「罵り」が聞こえていた。

                      70年代に跋扈(ばっこ)した、いわゆる“反日亡国論”を唱えた人々、あるいは、その系脈に連なる人々である。私は、その有り様を見ながら、日本が、ここまで中国や韓国と離間しなければならなかった理由を改めて考えさせられた。

                      あれだけ「謝罪」しつづけ、「援助」しつづけ、「頭(こうべ)を垂れ」つづけた結果、中国と韓国との関係がどうなったかを日本人は知っている。それが、実は、日本の一部のメディアがつくりあげた虚偽や離間工作によって“成し遂げられた”ものであることも、今では明らかになっている。

                      それだけに腹立たしいし、今後もつづくだろう中・韓への日本のメディアによる“煽り”ともいうべき報道が、これからの日本人にどれだけ多くの「災厄をもたらすか」を考えると、暗澹たる思いになるのは私だけではないだろう。

                      2017年以降、東アジアの行方は、まったく混沌としている。当初、信頼関係をなかなか築けなかったオバマ大統領と安倍首相が、最後にはここまで「友情」と「信頼」の関係を構築したことは、トランプ次期大統領との関係にも「期待」を抱かせてくれる。

                      だが、トランプ氏を自分の陣営に引き寄せようと、日本と中国が熾烈な戦いを繰り広げる本番は、「これから」だ。世界の首脳に先がけてトランプ氏との会談を実現し、まず信頼構築の第一歩を踏み出した安倍首相。幸いに“対中強硬派”を次々、登用するトランプ氏の方針が明らかになり、第1ラウンドを日本側が制したのは、間違いない。

                      しかし、それで安心はできない。トランプ氏には、中国とのビジネス上のチャンネルは数多くあり、もともとの人脈から言えば、日本など比較にならない。さらに言えば、トランプ氏の直情径行とも言える簡潔な思考方法も気になる。

                      私は、沖縄からの“電撃的米軍撤退”は、あり得ると思っている。つまり、トランプ氏が「沖縄の人々がそこまで米軍の存在が嫌なら、沖縄を放棄してグアムまで撤退しようじゃないか」と、いつ言い出すか予測がつかない、ということだ。

                      日本のメディアは、「地元民」として登場する反対運動の活動家たちの正体を一向に報道しない。つまり、基地反対運動を展開しているプロの活動家が「本当に沖縄県民の意見を代表しているのか」ということである。

                      尖閣諸島がある石垣市の市長が、沖縄本島の有り様に苛立ちを強めている理由もそこにある。中国の脅威に最前線で晒されている石垣島の漁民にとって、沖縄で地元民のふりをして活動をつづける“プロ市民”の存在は、本当に腹立たしいだろう。

                      すでに、中国による沖縄からの米軍撤退工作は、佳境に入っている。今年5月、中国は、沖縄の地元紙や大学教授、ジャーナリスト、文化人等を北京に集め、「琉球・沖縄最先端問題国際学術会議」なるものを開催している。

                      これは、沖縄の独立や米軍基地問題(つまり、撤退問題)などをめぐって意見を交わすシンポジウムで、主宰研究会の理事には、国防相まで務めた人民解放軍の元上将などが名前を連ねている。

                      参加した沖縄の大学教授の一人は、この研究会のホームページで、「われわれの目的は琉球独立だけでなく、軍事基地を琉球から全部撤去させることだ」という宣言までおこなっている。

                      こんなものが公然と中国政府の肝煎りで北京で開かれるほど、沖縄からの「米軍撤退工作」と、内地と沖縄との「離間工作」は本格化しているのである。

                      あらゆる階層で、あらゆるチャンネルを通して、中国は「日本の分断」をはかっている。それを横目に、オバマ―安倍の最後の日米首脳会談は終わった。

                      今回の訪問のもうひとつの意味を最後に書いておきたい。それは、安倍首相が、真珠湾攻撃で戦死した飯田房太海軍大尉(死後、2階級特進で中佐)の碑(いしぶみ)を訪れたことである。

                      安倍首相が、郷土・山口の大先輩である飯田大尉の碑を訪ねたことは、大きな意味を持つと私は思う。「耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます」という言葉から始まったスピーチの中でも、安倍首相はこの飯田大尉のことに触れている。

                      「昨日私は、カネオへの海兵隊基地に、一人の日本帝国海軍士官の碑を訪れました。その人物とは、真珠湾攻撃中に被弾し、母艦に帰るのをあきらめ、引き返し、戦死した戦闘機パイロット、飯田房太中佐です。

                      彼の墜落地点に碑を建てたのは、日本人ではありません。攻撃を受けた側にいた米軍の人々です。死者の勇気を称え、石碑を建ててくれた。碑には、祖国のために命を捧げた軍人への敬意を込めて、“日本帝国海軍大尉”と当時の階級を刻んであります。

                      The brave respect the brave.
                      “勇者は、勇者を敬う”

                      アンブローズ・ビアスの詩(うた)は言います。戦い合った敵であっても敬意を表する。憎しみ合った敵であっても、理解しようとする。そこにあるのは、アメリカ国民の寛容の心です」

                      私は、このスピーチに聞き入ってしまった。飯田大尉は、日中戦争で成都攻撃もおこなった指揮官の一人であり、その時のことは、3年前に亡くなった角田和男・元中尉(94歳没)から私は直接、伺っている。

                      高潔な人柄と、先を見通す卓越した感性は、同期の海軍兵学校(62期)の仲間の中でも抜きん出ていたと思う。真珠湾攻撃で被弾し、空母『蒼龍』への帰投をあきらめた飯田大尉は、米軍基地の格納庫に突入して、壮烈な戦死を遂げた。

                      敵とはいえ、その勇敢さに驚嘆した米軍兵士たちは、四散した飯田大尉の遺体を拾い集め、丁重に葬った。そして、1971(昭和46)年には記念碑が建てられ、安倍首相は今回、そこを訪れ、献花したのである。

                      被弾によって帰還をあきらめた飯田大尉の悲壮な決断は、のちに米軍を苦しめる神風特別攻撃(特攻)へと連なるものである。若者を死地に追いやったあの「特攻」ほど、戦争の無惨さ、虚しさを後世に伝えるものはないだろう。

                      だが、あの攻撃によって米軍が恐怖に陥り、“カミカゼ”というだけで、米軍兵士がある種の畏敬の念を表するようになったのも事実である。それが、飯田大尉の記念碑建立へとつながっていったことを私は聞いている。

                      今年は、私にとっても、さまざまなことがあった年だった。拙著『太平洋戦争 最後の証言(零戦・特攻編)』、あるいは『蒼海に消ゆ』といった特攻を扱ったノンフィクション作品の中で、貴重な証言をいただいた元士官たちが、次々と亡くなった1年だったのだ。

                      1月には、福岡・久留米在住の伊東一義・元少尉(93歳没)、5月には、広島・呉の大之木英雄・元大尉(94歳没)、同じく5月には、長野市の原田要・元中尉(99歳没)が大往生を遂げた。原田さんもまた、角田元中尉と同じく飯田大尉の部下だった。

                      特攻で死んでいった仲間たちの無念と彼らの思いを淡々と話してくれた老兵たちが、相次いで亡くなった2017年の最後に、まさか飯田房太大尉のニュースが飛び込んでくるとは予想もしていなかった。

                      それだけに、あの太平洋戦争で還らぬ人となった日本とアメリカの若者たちに、深く頭を下げ、「本当にご苦労さまでした。なんとしても、皆さんのためにも平和を守りたいと思います」と心の中で誓わせてもらった。

                      波乱の予感がする2017年が平穏な日々であって欲しいと願うと共に、日本が、偏った報道から脱皮し、他国の離間工作に翻弄されることなく、世界の現実を直視して、きちんと物事を判断できる国になっていくことを心から期待したい。

                      posted by: samu | 歴史認識 | 14:06 | - | - | - | - |