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「国民主権」ではわが国のすがたを破壊する/加瀬英明
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     今年、国会において成立した『皇室典範特例法』に從って、天皇陛下が譲位され、お世継ぎの皇嗣であられる皇太子殿下が、即位大造行われることによって、126代目の天皇として、御位につかれる。

     いったい、その時にだれが内閣総理大臣として、即位大造忙歌鵑垢襪里世蹐Δ?

     今上陛下が即位されたのは、平成2年11月12日のことだった。

     私はその時に、「即位太掬造竜掘廚鬟謄譽咾杷劼靴董∋の海部俊樹首相の非礼に慄然とした。私は自分の目を信じられなかった。

     この7月に朝日新聞が「平成と天皇 首相経験者に聞く」を、4日にわたって連載した。

     そのなかで、当時の海部首相が次のように得意げに語っている。

     「宮内庁からは、皇族と同じ『衣冠束帯』を着るように求められたが、僕は『この時代にそれはないでしよう』と反対し、燕尾服で参加した。天皇、皇后両陛下より一段低い中庭(ちゅうてい)の五砂利のうえで待ち、呼ばれてから殿上に上ってくるように言われたが、僕はこれも断り、最初から殿上にいることにこだわった。(略)」

     「いまの陛下の即位の礼は、戦後の憲法の下で初めて国事行為として行われるものだった。(略)日本が戦前と違う国民主権の民主主義国家であることを示そうと、僕なりに精いっぱいの努力をした。」

     首相と天皇が対等であることを示そうとしたのだが、あってはならないことだった。

     行政府の長として、天皇陛下と同格、あるいは現憲法が国民が日本の主人である「国民主権」を定めているから、天皇以上の存在だというつもりだったのだろうか。日本の国の姿を破壊する、不遜な発言だ。

     いま、憲法改正へ向けて議論が盛んになっている。

     日本が危ない。新しい憲法の天皇の条項では、天皇が日本の長い歴史を通じて、日本でもっとも尊い人であり、国民のためにつねに祈られていることを、規定してほしい。

     天皇陛下は国民を慈しまれ、徳を一身に体現されてこられた。

     天皇陛下は日本の親に当たる。皇后陛下が国母陛下と呼ばれるのは、そのためである。

     新しい憲法の前文は、明治天皇が定められた『教育勅語』の大要を、分かりやすい現代文に改めて、盛り込んでほしい。そして、祖先を供養し、家族を愛することが、社会の基本であることを説きたい。

     今日の日本では、多くの人々が心を軽んじて、自分本位になるなかで、人々のあいだの絆だけではなく、家族が崩壊しつつある。家族の崩壊は、やがて国の崩壊をもたらす。

     祖先を崇めて深く感謝することは、家族の結束を強め、親が子を子が親を大切にすることにつながる。

     いま、子に親を「パパ」「ママ」と呼ばせる家族が多い。「パパ」は、英語ではない。

     「パパ」は、イギリスのインド統治から、ヒンズー語が英語に入ったものであり、「ママ」は「マザー」(英語)、
    「ムター」(ドイツ語)などヨーロッパ諸語に由来するが、中国語でもある。

     父を敬い、母に感謝するのなら、どう呼ぼうとよいが、日本語のもととなっている古代の大和ことばでは、父は「トト」(尊い)、母は「カカ」(太陽がカッカと照る)と呼ばれたことを、知ってほしい。
    posted by: samu | 歴史認識 | 22:58 | - | - | - | - |
    大東亜戦争は昭和20年8月15日に終わらなかった/加瀬英明
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      Date : 2017/09/29 (Fri)

       今年の8月17日は晴れたので、主催者の1人としてほっとした。

       私たちは午後2時前に、市ヶ谷台にひろがる防衛省の構内の一画に建立された、スディルマン将軍の像の前に集合した。

       インドネシアのアリフィン・タスリフ駐日大使一行も、到着された。

       この日は、インドネシア共和国の独立を記念する72周年のよき日だった。

       定刻に、インドネシア独立戦争の英雄であるスディルマン将軍の銅像への第2回目の献花式が始まった。

       会衆は50数人だった。はじめに藤井厳喜代表が像の前に進んで献詞を述べ、つぎにタスリフ大使が挨拶文を読まれた。

       インドネシア タスリフ駐日大使の挨拶

       大使は、先の大戦中に日本軍政下で、インドネシア独立へ向けてインドネシア壮丁を募って、郷土防衛隊(ペタ)が結成され、1944年にスディルマン将軍が総隊長となったが、日本が大戦に敗れた2日後に、インドネシアが独立を宣言すると、オランダ軍がインドネシアを再び植民地にしようと、イギリス軍とともに侵攻してきた時に、スディルマン将軍が総司令官としてペタを中心とした独立軍を率いて戦い、オランダもついに1949年にインドネシアが独立国であることを承認することを強いられたと、日本への感謝を滲ませながら、述べられた。

       偉大な国民はその国の英雄を称えます

       大使が冒頭で、「偉大な国民は、その国の英雄を称えます」と前置きをされたので、私たちは全員が愕然として、深く恥じた。私たちは今日の日本で、日本の英雄を賞讃することがあるだろうか。日本は二流の国民に落魄(おちぶ)れてしまったのだ。

       そのうえで、藤井代表とタスリフ大使が並んで用意された、上が赤、下が白の花輪を持って、将軍像に捧げた。

       献花がすむと、山本ともひろ防衛副大臣、 内閣総理大臣補佐官の柴山昌彦参議院議員、山田宏参議院議員が挨拶された。

       小野寺五典防衛大臣が参列される予定だったが、ワシントンで2+2が催されたのに出席されたために、山本副大臣が出席された。

       私は献花式の呼び掛け人として挨拶したが、インドネシアの首都ジャカルタの軍事博物館に、日本の2枚翼の九五式初級練習機が展示されていることに、触れた。

       胴体の日の丸の下の部分が、新生インドネシアが国旗として定めたメラプティ(紅白旗)として、白く塗り替えられているが、大戦中に日本の航空兵の訓練が、石油資源が豊かなインドネシアで行われた時に、インドネシアの青年にも飛行訓練を施したことから、オランダ軍の上空から、手掴みで爆弾を投下した。

       私は「メラプティ旗を仰ぐたびに、日の丸が二重映しになります」と、述べた。

       旧陸軍の九五式練習機は、“赤トンボ”の愛称によって国民に親しまれたが、ジャカルタに展示されている“赤トンボ”が、今日、唯一つ現存する機体である。

       昭和20年8月 2000人の日本人の志

       日本が昭和20年8月に大戦に敗れると、2000人の日本軍将兵が帰国することを拒んで、日本国民が幕末からいだいてきた、アジア解放の一途の願いを果そうとして、インドネシアに残留して、独立軍に身を投じて戦った。このなかで1000人が、アジア解放のために戦死され、インドネシア国立英雄墓地に葬られている。

       大東亜戦争は昭和20年8月15日に、終わらなかった。インドネシア国民が戦い続けたのだった。

       献花したばかりの赤と白の花が輝いて、両民族の生命(いのち)をあらわすように、目に沁みた。

       市ヶ谷台はアメリカの占領下で、不法な東京裁判が行われて、東條首相以下7人が「アジアを侵略した罪」によって裁かれた場所である。あの無法な裁判が進められていたあいだに、裁判を行ったアメリカ、イギリス、フランス、オランダ諸国が、何をしていたのか。

       オランダはイギリス軍の援けをかりてインドネシアを、フランスもベトナムを再侵略して独立軍と戦い、イギリスはインパール作戦によって覚醒したインド国民が、独立を求めて全土にわたって蜂起したのを、空から機銃掃射を加えるなど、鎮圧をはかっていた。アメリカは白人による支配を復活させようとして、これらの諸国に武器弾薬を供給していた。

       スディルマン将軍は病いをおして戦ったが、独立軍が最後の勝利を収めるのを眼にすることがなく、その直前に病没した。今日、インドネシア最大の英雄の1人として、全国各地に銅像が建立され、肖像が紙幣にもあしらわれている。

       その独立の英雄の銅像が、市ヶ谷台を睥睨(へいげい)していることは、東京裁判が“偽りの復讐劇”であったことを、雄弁に証している。

       私の父俊一(としかず)は、開戦から終戦に至るまで、外務省北米課長をつとめた。終戦の9月2日にミズリー号艦上で催された降伏調印式に、重光葵全権の随員として、出席した。

       母の心は日本と共にあり

       私は母に連れられて、長野県に疎開していたが、四谷にあった自宅が戦火によって焼かれたために、父は母のか津とともに、信濃町の借家に移っていた。

       か津が調印式に出席する前の晩に、父にあらたまった口調で、「ここにお座りなさい」と命じた。父が正座すると、「私はあなたを恥しい降伏の使節として、育てた覚えはありません。明日(あした)は行かないで下さい」と、いった。父が「この手続きを踏まないと、日本が立ち行きません」と、理を尽して説明したが、か津は納得しなかった。

       か津は隣室へゆくと、父のために翌朝の新しい下着を揃えはじめた。父は母が泣き伏す大きな声が伝わってきたと、後にこの晩のことを記している。

       私は10月に、母とともに東京に戻った。上野駅で降りると、目の届くかぎり焼け野原だった。父が夜遅く戻ってくるまで、起きていた。私は「こんなに東京がひどく壊されてしまったけど、日本は大丈夫?」と、たずねた。

       父は「アメリカは日本全部を壊すことができる。しかし、日本人の魂を壊すことはできない」といった。

       日本人の魂を壊すことはできない

       中学に進んだ時に、私は父に「どのような想いで、ミズリーの甲板を踏んだのか」と、たずねた。すると、父は「日本は戦闘に敗れたけれど、数百年も白人の支配のもとに苦しんでいたアジア民族を解放したから、戦争には勝ったという誇りを胸に秘めて、甲板に立った」「重光も同じ想いだった」といった。

       スディルマン将軍の銅像は、鳩山由紀夫内閣の時に、インドネシア国防省から防衛省に寄贈された。

       防衛省が退役したヘリコプターを1機置いている構内の片隅に、設置した。私は当然、防衛省が年に1度、インドネシア独立記念日か、スディルマン将軍の命日に省内で献花を行っていると思ったが、ただ放置されていた。

       そこで、私は一昨年有志男女を集めて、インドネシア独立記念日に献花することを思い立った。親しい国際政治学者の藤井氏に代表を引き受けてもらい、40人ほどの有志を募って、献花したところ、インドネシアのユスロン・イザ・マヘンドラ駐日大使(当時)が聞いて、制服武官をはじめ館員を連れて、参加してくれた。

       その日は弱い雨が、私たちを濡らした。マヘンドラ駐日大使が喜んで、新しい大使に交替しても、代々申し継いで参列することにしたいといわれた。

       献花が公式行事に

       昨年7月に、私たち有志が赤坂のレストランを借り切って、翌月の献花式の打ち合わせを行ったところ、マヘンドラ大使一行も参加された。ところが、防衛省に申し入れると、像があった場所に、PAC3を常時配備するために、像を梱包して倉庫に納めているということから、延期することを強いられた。

       今年、像がよりよい場所に移設され、献花式が防衛省の公式行事として、格上げされた。
      posted by: samu | 歴史認識 | 09:42 | - | - | - | - |
      「通州事件80周年 記憶と慰霊の国民集会」藤岡信勝
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        7月29日の「通州事件80周年 記憶と慰霊の国民集会」は、靖国神社の慰霊祭に150人、有楽町新国際ビルでの国民集会に300人という多数の参加者のもと、大きな盛り上がりをみせました。非業の死を遂げた犠牲者の皆様の御霊を慰めることに少しでも役立てば、本当にうれしく存じます。参加・協力をいただいた皆様に心より感謝致します。
        この報告ではまず、事務局長の宮崎正弘氏がメルマガ「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成29年(2017)7月30日(日曜日)通算第5375号に掲載した概要を転載(一部訂正・加筆)し、次に少し裏話も含めて、この集会に至る出来事の流れを書いてみたいと思います。

        【A 宮崎正弘氏の報告からの転載】

        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
        慟哭の「通州事件」から80年が経った
        寸鉄を帯びぬ無辜の同胞が無慈悲に惨殺された無念と慟哭
        *****************************

        7月29日、あの通州事件から80年を迎えた。靖国神社には、主催者の予測をはるかに超えて二倍の人々が参集し、無念の犠牲者に祈りを捧げ、二度とこのような惨劇を繰り返さないことを誓った。
        全員が本殿に昇殿参拝した。参列者のなかには文藝評論家の桶谷秀昭氏、黄文雄氏らの顔もあった。

        ひきつづき会場を有楽町に移し、「通州事件80周年 記憶と慰霊の国民集会」が開催され、会場は満杯。補助椅子を足しても収まりきれない多くの人々が駆けつけた。
        会は佐波優子さんの司会で始まり、最初に映画を上映。未発表のフィルムや証拠文献などかずかすが挿入された初公開のフィルムに見入った。
        https://ja.wikipedia.org/…/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%B…

        国歌斉唱、黙祷につづいて主催者を代表して加瀬英明氏、ジャーナリストの桜井よしこ氏が挨拶した。

        第一部の「事件関係者が語る通州事件の真相」に移り、コーディネーターは皿木喜久氏。事件当日に銃撃を受けながら奇跡的に助かった母が三ヶ月後に産んだ運命の子、加納満智子さん(現在79歳。3か月に80歳)が、その奇蹟の運命を語って会場はしーんとなった。
        また、犯行に及んだシナ兵と遭遇し、撃滅した部隊長の子息、奈良保男氏が登壇し、なまなましい当時の事件の背景や、伝え聞いている真相など、多くの証拠品を提示されながら語った。会場には中国専門家の樋泉克夫氏、また女性ジャーナリストとして活躍する河添恵子氏、福島香織氏らの顔もあった。

        休憩後、第二部に移り、阿羅健一氏、小堀桂一郎氏、北村稔氏、緒方哲也氏、ペマ・ギャルポ氏、オルホノド・ダイチン氏、三浦小太郎氏、そして最後に藤岡信勝氏がそれぞれ貴重な意見を述べた。

        とくに藤岡氏はチベットやウィグル、南モンゴルの夥しい血の犠牲の記憶回復運動とも連携し、今後の運動方針として、この通州事件をユネスコの「世界の記憶」として登録してゆくことなどの説明があった。閉会の挨拶は宮崎正弘が担当した。

        【B 国民集会準備の経過と開催の意義】
         事件80周年のこの日、どうしてこのような国民集会を開くことができたのか。この開催に至るまでの出来事の因果関係を辿ると、いろいろなことが思い出され、重要なことが見えてくる。終了後の懇親会の席で、ゲストの加納満智子様と奈良保男様、そして通州基金の役員の松林利一氏と、たまたま近くの席にすわった。きかれるままに話しているうち、いろいろなことが思い出された。それで、ここにその一端を書いてみようと思う。

         まず、第一に、どうして私が通州事件に着目したかという事情である。
         それについて言うと、すべては紫色の一冊の本との出合いから始まったと言ってよい。 いま、正確な日付けを特定することはできないが、美し国の会議室で開催された、私が担当する講座の折り、入り口で、元つくる会の事務局におられたI氏から勧められたのが、その本だった。『天皇さまが泣いてござった』という不思議なタイトルがついており、著者は「しらべ かんが」という、これも何やら神秘的な名前の方であった。私家版だったが、342ページもある立派な本で、1800円の定価がついていた。
         この本は佐賀県の基山町にある因通寺というお寺の住職・調寛雅氏が、連続講話をされた内容を、語り口のままに掲載したものである。そのテーマは、日本人は大東亜戦争時、いかに不当で残虐な殺され方をしたか、という「日本人の被害の歴史」だった。そして、そのお話の中に、通州事件の現場目撃者である佐々木テンさんの証言を書き取った記録が入っていたのである。
         私は一読して仰天した。通州事件は断片的には知っていたが、事件の凶行が行われる現場をリアルタイムで見ていた日本人がいたとは驚きであった。しかも、そこで語られた内容は、とても口にすることもできないようなものだった。
         私はとにかく、一度基山町の因通寺を訪問しようと思った。実現したのは、2年前の12月15日。それから私は何とかこの証言を復刊して世に出そうと熱望した。それが実現したのが、昨年の7月29日である。その本、ブックレットで自由社から出版した『通州事件 目撃者の証言』は、1万部以上売れている。
         この本の中に、青竜刀で惨殺された老婆が絶命する間際の声を佐々木テンさんが聞き取ったエピソードが出てくる。今回の集会の冒頭でビデオが上映されたが、その中で、プロの女性が読む場面があり、この老婆の声が再現された。「くやしい。仇をとって欲しい」と老婆は言い、息子(多分)の名前を呼び、最後に何と南無阿弥陀仏と念仏を唱えたのだ。
         その念仏が耳から離れず、日本に帰国したテンさんは、お寺に通うようになった。そして、大分の説教所で調師と巡りあうのである。このお坊さんなら、自分を変人扱いせずに受け止めてくれるに違いないと思って、半世紀にわたって秘してきた身の上話をする決断をしたのであった。因果関係を図示すればこうなる。

         断末魔の老婆の念仏→テンさんがお寺に熱心に通う→調師と出会う→調師が著書に書く →私がその著書に接する→ブックレットとして証言の全文を出版する

        このように書いてみると、青竜刀で斬り殺された老婆の無念の思いがテンさんを動かし、それが調師に伝えられ、私がそれを仲介して今の時点で読めるようにした、ということになる。もとをたぐれば、老婆の無念の思いがそれに続く人々を動かし、皆さんの手に渡ったと言える。因果関係とは出来事の系列を示すものだが、そこを貫いているのは、人の強い「思い」なのである。
         但し、この因果系列の中には、調師→私 という向きだけでなく、 私→調師 という逆向きのベクトルも存在することを付け加えておこう。というのは、調師の原稿は書かれてから10年近く出版社が見つからないままお蔵入りしていたのだが、平成9年(1997年)の11月に、自費出版の形で発行された。どうしてこのような形での出版を決断したかというと、そこには、教科書問題、歴史問題が世上論じられるようになった変化が影響していると推定されるのである。実際、同書には、私の名前を出して書いて下さっている箇所もある。だから、お目にかかる機会のなかった調師とは、この件では相互に影響し合っていることになる。平成9年は、まさにつくる会が創立された年である。つくる会がいかに社会の雰囲気を変える一石になったか、このことでも看て取ることができる。
         このような、人と人との出会いの話を申し上げたら、奈良氏と加納氏は、「縁ですね」とおっしゃった。「縁」のほうが日本的であり、「因果関係」よりもしっくりくるかもしれない。

         因果関係の話はあと2系列あるのだが、少々長くなったし、読む方もくたびれると思うので、続きは明日書くことにしたい。 

        posted by: samu | 歴史認識 | 10:30 | - | - | - | - |
        英霊に誓う靖国神社参拝/西村眞悟
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          八月十五日の終戦の日を迎え
          靖国神社に参拝するにあたり、
          次のことを記しておきたい。

          八月に入り、
          テレビ画面で、戦争中の悲惨で残酷な映像を見る日々が続いてきた。
          そして、その戦争の中で、戦死した人々を、
          無意識のうちにも、
          平和な現在とは全く異なる悲惨で異常な時代の犠牲者、
          つまり、現在の我々とは無縁の気の毒な人々として位置づけてしまいがちである。
          しかし、英霊の命は、
          日本を守るために捧げた命である。
          そして、その日本とは、過去現在未来を貫く日本だ。
          従って、英霊は、
          過去のその時点の日本に留まっているのではなく、
          現在の日本と共にあり、
          現在の日本を守っている。
          つまり、英霊と我々は一体なのだ。
          我々も、一旦緩急あれば、英霊と共に日本を守らねばならない。

          英霊の生きた過去を現在とは関係の無い「異常な時代」として片付けるということは、
          過去の実態を直視しないということだ。
          過去を直視しない者は、
          現在の実相を直視することもできない。

          先に紹介したスイス政府が編纂して全スイス国民に配布している
          「民間防衛」のまえがきに次のように書いている。

          われわれは、脅威に、いま、直面しているわけではありません。
          しかしながら、国民に対して、責任を持つ政府の義務は、
          最悪の事態を予測し、準備をすることです。

          その上で、スイス政府は「民間防衛」において、
          核攻撃を受けた際の被害を、
          急襲されたとき、警報があったとき、全員が避難所にいたとき、
          の区別に従って推計し、
          それぞれ、国民の安全率を35%、60%、90%と説明したあとで、
          さらに、核爆弾の規模に応じて、爆発後に、
          避難所(核シェルター)から外へ出ても安全な時間を国民に告げている。

          このように、脅威に直面していないスイス政府といえども、
          「最悪の事態」を予測し、
          核シェルターを造り、核爆弾からの安全対策を国民に説明しているのだ。
          では、
          脅威に直面していないスイスではない
          脅威に直面している我が国政府は、
          政府の義務として「最悪の事態」を予測し、
          そこから国民の安全を確保する準備をしているのか!?

          北朝鮮は、ミサイル四発をグアム島周辺に打ち込む包囲攻撃計画を公表している。
          これに対してアメリカのトランプ大統領は、
          この計画実施を、宣戦布告とみなし、
          あらゆる手段をとる、未だ見たこともない惨害を北朝鮮に与えると公言している。
          つまり、アメリカ大統領は、相手が先に拳銃を抜くのを待ち構えている。
          即ち、
          我が国は、今、脅威に直面し、「最悪の事態」を想定しなければならない時である。
          そして、この「最悪の事態」においては、
          我々は、英霊の思いを我が身に蘇らせて、国を守らねばならない。

          北朝鮮は、グアム島に向けたミサイルを、
          島根、広島そして高知の上空を飛ばすと公言している。
          我が国は、そのミサイルを打ち落とすのか、
          グアム島に弾着してもかまわないと呆然と見送るのか。

          八月十五日の靖国神社そして全国の護国神社では、
          過ぎ去った時代に生きた英霊を追悼するのではなく、
          英霊の守ろうとした日本を、
          我らもまた守ると誓い、
          その誓いを英霊に伝えよう。

          posted by: samu | 歴史認識 | 10:38 | - | - | - | - |
          露清密約の再現、現在の中露対日連携/西村眞悟
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            時事通信で、我が国の深刻な危機は、国内の甘さである、と書いた。
            特に、中共とロシアに関して、伝統的に甘い。
            我が国内には、
            北朝鮮という火病を発症した独裁者をもつ国を、
            中共とロシアが、先輩として国際社会のなかに調和し協調するように
            あやしなだめてくれると期待して頼っている風潮がある。
            しかし、この中露の二国は、そのような日本の期待に応える国ではない。
            ともかく、我が国は、
            近代化に進み始めた我が国の前に立ちはだかった最大の脅威は、
            この二国であった歴史的事実を忘れてはならない。
            そして、その脅威は、現在に至るも何ら衰えていないのである。

            我が国に大きな惨害をもたらした対米戦争は、
            この中国とロシア(ソビエト)の関わり合いのなかで、
            コミンテルンと中国によって招き寄せられたものである。
            そこで、
            この度、「月刊日本」八月号に寄稿した次の原稿を記して、
            中露に対する警戒心を喚起したい。 

            ・・・   ・・・   ・・・   ・・・   ・・・   ・・・   

            明治三十八年五月二十七日、
            我が国で、対馬の人々だけが、我が国の連合艦隊と帝政ロシアのバルチック艦隊が、
            対馬と沖の島の間の海域で激突する空前絶後の海戦を目撃した。
            それは、我が国の命運を決定して世界史を創る瞬間である。
             対馬の北に住む人々が古老から聞いたことは、
            その時彼らは北対馬の山の上から南東海域を眺め、
            被弾したロシアの軍艦が黒煙を上げて燃え上がり沈没して行くのを遙かに遠望して歓呼の声を上げたという。
             そして、その同じ人々が、
            翌日の二十八日、沈没したロシア巡洋艦ウラジミル・モノマフからボートで脱出し、
            対馬の北の殿崎の丘の下の海岸に漂着した百四十三名のロシア水兵達に、
            まず水を与え、彼らを自分たちの家に泊めて介抱したのだ。
             ここに、敵に対する敵愾心だけではなく、
            敵味方を超えて苦しむ者を慈しむ、真の日本人の姿がある。
            そして現在、漂着したロシア兵達が水を飲んだ泉は今も水を湛え、
            その上の道路の山沿いには、
            負傷して佐世保の病院に入院している
            バルチック艦隊のロジェストウェンスキー司令長官を見舞う
            東郷平八郎連合艦隊司令長官と幕僚の巨大なレリーフ像が建っているのである。
            地元の武末裕雄さんら有志が一億円の私財を出して、
            まさに、ロシア兵漂着の丘に、
            我が国の美風である「武士の情け」を象徴する情景を建設したのである。
             明治天皇は、日露戦争に際して、次の御製を詠まれた。
             
             國のためあたなす仇はくだくともいつくしむべき事なわすれそ

            対馬の人々は、この殿崎の丘で、まさにこの御製の心を体現したのだ。
            従って、この丘は、民族の叙事詩を伝える丘となっている。
             
             確かに百十二年前の日露戦争は、
            誇り高い高貴なる明治の叙事詩となった。
            しかし、その叙事詩を生み出した厳しい現実が、
            百年の時空を経て、我が国の周りで再現されつつあることに眼を向けなければならない。大陸のロシアとシナの本質は、百年前と何ら変わっていない。
            そこで、ロシアに焦点を当てて、
            東アジアにおいても、その民族の宿痾ともいうべき南下への願望が甦りつつあることに触れたい。
             他方シナ・中共は、触れるまでもなく、
            露骨に中華意識をむき出しにして我が国の尖閣を侵略して、
            そこを橋頭堡(ミサイル基地と海軍港湾)として台湾と沖縄本島を飲み込み、
            その上で、日本列島そのものを支配下に入れようとしていることは目に見えている。
             
            ところが実はロシアも、北で公然と同じ事をしているのだ。
            既にロシアは、我が国領土である国後と択捉に最新のミサイル基地を建設している。
            これ、南の尖閣に、ミサイル基地を狙う中共と同じではないか。
             しかし、我が国は、安倍総理大臣が
            プーチン大統領をウラジミルと親しげに呼ぶのに安心して、
            プーチンとロシアに対する警戒感を麻痺させている。
             ロシアが、首脳同士の個人的な関係で動くものか。
            プーチンの安倍総理への親しげな姿勢は、
            情報謀略組織であるソ連国家保安委員会(KGB)の将校であったプーチンの演出である。
             
            プーチンは、KGBから「強いソビエト」を目指して政界に入り、
            ソビエト崩壊後の二〇〇〇年(平成十二年)の末に、
            ソビエト国歌のメロディーを復活させる国歌法を制定した。
            そのプーチンの創った「ロシア国歌」は、
            「強いソビエト」を継承するもので、その歌詞には、

            おお、南の海より極地の果てへと広がりし我が森と草原よ・・・
            これ、神に守られた祖国の大地よ!

            とある。
            では、ロシアから見て、「南の海」とは何処の海か。
            それは、ユーラシアの東と西にある海だ。
            西は地中海に出るウクライナ領クリミアの海である。
            そして、東は朝鮮半島の南に広がる海、
            即ちそれは対馬の海、日本を取り巻く海だ。
             
             昨年六月、ロシア海軍と中共海軍は、
            南シナ海で合同軍事演習を行っている。
            そして、まずロシアの軍艦が我が国の宮古島の領海に侵入し、
            中共の軍艦がそれに続いた。
            また、昨年度の我が国の航空自衛隊のスクランブル発進回数は、
            冷戦時代を遙かに超えて、
            対中共軍機には851件、
            対ロシア軍機には301件である。
            つまり、中共軍機は一日に二回以上、ロシア軍機は一日一回の割合で、
            我が国の領空に接近している。
            同時に中共は、南シナ海の南沙諸島に、ロシアは、国後・択捉に軍事基地を造った。
            これはまるで、中共とロシアが、
            南と北から日本を挟撃するために軍事的に連携している状況ではないか。
             
             しかも、この両国は、西方においては、
            中共は、チベットとウイグルを軍事力で強権的に制圧し、
            ロシアは、世界とウクライナを油断させて一挙にクリミアを軍事力で強奪した。
            この中露二国は、
            ともに、相手の虚に付け入って軍事力を行使することを躊躇わない。
             
            そしてこのプーチンが、昨年末に、澄ました顔をして来日し、
            安倍総理の郷里の山口県を訪れて、日露友好を演出し、
            北方領土返還の可能性というニンジンをぶら下げて、
            日本からの資金を釣り上げたというわけだ。
            返還するつもりがあるならミサイル基地など造るものか。
            もはや安倍総理は、
            プーチンをウラジミルとか呼んでいる場合ではない。
            総理は、我が国の国後・択捉にミサイル基地を造るな!
            と靴を脱いで、
            その靴でプーチンの前の机を叩かねばならない。
             
            ここにおいて我々は、現在を知るために、
            百年前のロシアの対日戦略を知るべきである。
            トルストイは
            「監獄に入ったことのない者は、その国がどのような国家か知ってはいない」
            と書いた。
             また、帝国陸軍参謀本部次長、そして関東軍参謀長の要職を務め、
            戦後十一年間シベリアに抑留された秦彦三郎将軍は、
            臨終の近い日に、内村剛介に言った(内村著「ロシア無頼」)。
            「私は生涯ロシア・サービスで一貫し、
            ソ連に長く駐在し、ソ軍の演習にも参加した。
            でも何一つ分かっちゃいなかった。
            敗戦後ソ連の収容所暮らしをするまでは・・・」と。
             
            我が国のロシア認識は甘すぎる。
            この認識の甘さ自体が我が国の危機である。
            我々は、
            「西洋の衣を着たタタールであるロシア」
            の本質を見抜かねばならない。

            海将補で元防衛大学校教授の平間洋一氏は、
            ロシア海軍軍令部編纂の史料を発掘し、
            そこに記されている次のロシアの戦略を紹介している(同氏著、「日露戦争が変えた世界史」芙蓉書房出版)。

            「日本に勝利するためには、一・五倍の兵力が必要であり、兵力増強が完了するまで二年間は対日戦争を避けるべきである」、
            「極東でロシアが絶対優位権を確立せんと欲するならば、須く日本を撃破し、その艦隊保持権を喪失せしめなければならない」、
            さらに、
            「対日戦争では朝鮮を占領し、馬山浦を前進基地として日本人を撃破するのみにては不十分で、さらに之を殲滅せざるべからず」。
             
            この日露開戦前のロシアの戦略と見通しは、
            現在のプーチンの描いているものと一致する。
            現在のプーチンが、東の我が国に対してソフトなのは、
            西のシリアとクリミア問題で手一杯で、
            東への余力がないからだ。
            百六十年前のクリミア戦争でくたくたになったロシアが、
            東でアラスカをアメリカに売って金をせしめたのと同じく、
            現在もプーチンのロシアが、東の日本から資金を調達するつもりなのだろう。
            従って、北方領土における日露共同経済開発とは、
            ロシアの主権の下で行われる事業に日本が金を出すカラクリに過ぎない。
            百十三年前の日露開戦前と違うところは、
            現在は中共が力を持っているので、
            ロシアも中共を無視できず中露対日連携に向かうということだ。
            ここで思い浮かぶのは、
            日清戦争の翌年の明治二十九年(一八九六年)に結ばれた
            中露の極秘の対日攻守同盟である露清密約である。
            この密約は、
            ロシアが清の李鴻章に多額の賄賂を手渡し、
            その見返りに満州を獲得して結ばれたのだ。
            我が国は、この密約を知らず、
            九年後に、清がロシアに売った満州から多量の血を流してロシアを駆逐して
            清国領に戻したのだ。
            つまり、清国は、
            自らロシアに売り渡した満州を、
            日本に血を流させて取り戻したというわけだ。
            いずれにしても我が国は、
            この頃言われた次の警句を想起することだ。
             
             ロシア人は約束を破るために約束をする、
             シナ人はそもそも約束は守らねばならないと思っていない。

            posted by: samu | 歴史認識 | 09:46 | - | - | - | - |
            GHQが新聞社16社・通信社3社の事前検閲を廃止し、事後検閲に移行/Pride of Japan
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              今日は何の日 7月15日 昭和(1948年) - GHQが新聞社16社・通信社3社の事前検閲を廃止し、事後検閲に移行。


              終戦後、GHQは「人権指令」を発しておきながら、個人の私信にまで検閲を行うという基本的人権の侵害を行った。

              「原子爆弾は国際法違反の戦争犯罪である」という鳩山一郎の談話を掲載した朝日新聞を48時間の発行停止処分にしたことなど、すさまじい言論弾圧を行ったのだ。

              終戦後の昭和20年9月21日、GHQは、日本新聞遵則(日本出版法、プレス・コード)、日本放送遵則(ラジオ・コード)を報道関係者に公表させた。

              そこでは表現活動において触れることを厳禁した30項目(30ヶ条)が設けられた。思想言論のコントロールをするために言論統制がしかれた。

              第1条 SCAP(GHQのこと)に対する批判はいけない
              第2条 極東軍事裁判(東京裁判)への批判はいけない
              第3条 SCAPが日本国憲法を起草したことについての言及と批判はいけない 日本政府があくまでも自身で起草したのだという建前で、占領軍が押し付けた新憲法草案を発表するよう、GHQより強要されたものではなく、両院(衆議院と参議院)でこれを審議させたものとする。
              第4条 占領軍が検閲をしていることに関する言及と批判はいけない 占領軍がこういう検閲をしていることは言論の自由を抑圧しているわけである。ところが、ポツダム宣言は第十条で言論の自由をうたっている。
              第5条 アメリカに対する批判はいけない 東京大空襲をはじめとした無差別爆撃、広島、長崎原爆投下など、数々の虐殺を重ねたアメリカへの批判はいけないというのだ。日本軍の真珠湾攻撃を巧妙に誘導したルーズベルトの陰謀についても語ってはいけないというのだ。
              第6条 ソ連に対する批判はいけない 日ソ中立条約を一方的に破棄して、満洲での略奪・虐殺、樺太での虐殺、シベリア抑留など数々の暴虐行為を重ねたソ連への批判はいけないというのだ。ソ連軍が日本人、特に婦女子に対してどのような暴虐な行為をしたか、その批判もしてはならないというわけだ。
              第7条 イギリスに対する批判はいけない
              第8条 朝鮮人に対する批判はいけない
              第9条 支那に対する批判はいけない
              第10条 他の連合国に対する批判はいけない
              第11条 連合国一般に対する批判はいけない
              第12条 満州における日本人取り扱いについての批判はいけない
              第13条 連合国の戦前の政策に対する批判はいけない
              第14条 第三次世界大戦への言及はいけない 第三次世界大戦が起きたら、敗戦国日本がそれに乗じてのし上がろうとか、言ってはいけないということ。また、ヤルタ密約でソ連に協力させて戦争に勝ったのに、米ソが対立していることを批判してはいけないということ。
              第15条 ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及はいけない 冷戦が厳しくなったらそれに付けこもうなどと、言ってはいけないということ。
              第16条 戦争擁護の宣伝はいけない 大東亜戦争はこういうわけで避けることができなかった日本にとって自存自衛の戦争だったというふうに、日本の戦争遂行を弁護してはいけないということ。ところがマッカーサー重大証言でマッカーサーまでもが日本の自存自衛戦争だったことを認めてしまっている。
              第17条 神国日本の宣伝はいけない
              第18条 軍国主義の宣伝はいけない
              第19条 ナショナリズムの宣伝はいけない 民族主義、国家主義の宣伝もいけない。
              第20条 大東亜共栄圏の宣伝はいけない おまえら日本人は、大東亜を解放したなどという生意気なことをいってはならない、ということ。
              第21条 その他、以上で特記した以外のあらゆる宣伝は禁止 これには何でも入ってしまうどんでもない項目。
              第22条 戦争犯罪人の正当化、弁護の禁止 これがあるため「A級、ないしB級、C級戦犯」に指名された人たちを正当な根拠によって弁護することも一般の日本国民にとっては不可能だった。
              第23条 占領軍兵士と日本女性が性的交渉を持っていることを言ってはいけない。
              第24条 闇市の取引のことを言ってはいけない 占領軍が面倒を見てやっていて、おまえら日本人は、経済面で不都合はないはずだから、闇市場のことなどいってはいけない、ということ。
              第25条 占領軍に対する批判はいけない
              第26条 食糧不足を誇張してはいけない
              第27条 暴力と不穏の行動の扇動 国民が騒ぎ出すような暴力行為や不穏状態を誘導してはいけない、ということ。
              第28条 虚偽の陳述をしてはいけない 嘘を言ってはいけないならばいいが、嘘か本当かは占領軍の検閲官が決めるというふざけたものだった。
              第29条 GHQやその地方支部に対する不適切な言及をしてはいけない
              第30条 真実の報道であっても、時期尚早の発表はいけない 時期尚早かどうかは、占領軍が決める。


              事前検閲から事後検閲へ
              http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-4975.html
              posted by: samu | 歴史認識 | 10:02 | - | - | - | - |
              国の祝日、明治の日・明治節は何故必要なのか/西村眞悟
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                七月十五日午後一時三十分より、大阪護国神社において、
                十一月三日の「明治の日」制定の必要性について話をさせていただいた。

                その話を準備するに際し、
                気になったのは、七月二十日の「海の日」の変遷の経緯であった。
                明治八年七月二十日、
                若き明治天皇は東北と北海道巡幸から最新の英国製洋式汽船「明治丸」に座乗されて、
                東京湾に帰着された。
                よって、その日を記念して七月二十日は「海の日」という祝日に定められた。
                しかし、戦後は「海の日」は祝日から外されていた。
                それが、現在のように、祝日として復活したことに関していささか思い出がある。
                私は、その時、衆議院の内閣委員会理事であった。
                そして理事会は、「海の日」を祝日として復活させる法案を審査にかける決定寸前に至っていた。しかし、その時、社民等の左側から、条件が出された。
                その条件とは、「八月十五日」を「敗戦の日」として祝日にするのならば
                「七月二十日」の「海の日」に同意するというものであった。
                私は、まず自民党の理事から、その左側からの提案に関して意見が表明されると思っていた。しかし、何の発言もない。このままでは、「敗戦の日」が浮上しかねない。
                そこで、私は発言した。
                「世界の何処に、戦争に敗北した日を、祝日にしている国があるのか、馬鹿馬鹿しい」
                これで、議論は終わり、「海の日」だけが、祝日として復活した。
                「海の日」は、明治八年七月二十日に
                明治天皇が「明治丸」で東京湾に入られた日を記念して定められたのだ。
                ところが、だ。
                現在、「海の日」は、明治八年七月二十日の明治天皇の記憶から遊離させられて、
                単なる「休日」として扱われ、「連休」となるように仕組まれている。
                今年で言えば、
                七月十六日の日曜日の翌日である七月十七日が「海の日」で休みという訳だ。
                連休が多ければ儲かると思った観光業界や旅館業界の陳情を受けて
                自民党内の業師がこういう法改正をすんなり通したということだ。
                利を求めて走る、国家観無き戦後の典型的な風潮である。

                従って、この度、護国神社で
                「明治の日」復活の話をするにあたり、
                「明治の日」も、「海の日」と同じように、
                民族の記憶から遊離させられて単なる「休日」の話となってはならないと思い、
                冒頭に次のメッセージを作り配布させていただいた。
                ・・・      ・・・    ・・・
                「明治の日」
                を制定することは、
                明治を偲び回顧するためではなく、
                迫り来る国難を克服して、我が日本の存立を確保し、
                誇りある未来を開拓するためである。
                過去は、
                過ぎ去った日付のところにあるのではなく、現在の我々とともにある。
                従って、明治を取り戻すことは、
                明治と現在の連続性を取り戻すことであり、
                我々自身を取り戻すことである。
                「明治の日」
                を祝うことは、
                悠久の太古から天皇とともにある
                祖国と民族と大和魂を取り戻し、
                我々自身の人生を取り戻すことである。

                御民吾 生ける験あり 天地の 栄ゆる時に 遭へらく 念へば
                               万葉集 天平六年 海犬養岡麿
                ・・・    ・・・    ・・・

                我が国を思いそのアイデンティティーを見つめるとき、
                次の二人の人物の語ったことを思い起こす。
                一人は、先日亡くなった渡部昇一先生
                「皇室と神社は、天皇と神社は
                日本文明を日本文明たらしめている根源である」

                もう一人はフランス人の社会人類学者クロード・レブィ=ストロース
                「日本的特殊性なるものがあり、それは根源からしてあったのだ。
                そして、それらが外部からの諸要素を精錬して、
                つねに独創的な何物かを創りあげてきたのだ。
                われわれ西洋人にとっては、
                神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている。
                日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、そこでは誰もが、
                歴史とも神話とも密接な絆を結んでいられるという点にあるのだ。」

                万世一系の天皇は、
                天照大神の天壌無窮の神勅に基づいている。
                太古の神話に基づく元首を現在に戴いている国家が
                日本以外の何処にあろうか。
                よって、ここに、
                天皇の祖神である天照大神を祀る伊勢神宮の内宮の前に、
                昨年、サミットに参加したG7の首脳が集ったことには
                実は深い文明論的意義があるのだ。

                高貴なる明治
                それは、神話と天皇の国日本の甦りである。
                日本が誕生してから、
                海ゆかば水く屍と、山ゆかば草むす屍と、
                万葉集に歌を残した防人をはじめ、
                多くの先人達が大和心、大和魂を残してきた。
                明治維新と明治とは、
                広大な大気中に散在する電気が 
                避雷針の一点に集中して
                巨大なエネルギーとなって閃光と大音響を発する雷と同じように、
                遥か太古からの我が国の歴史のなかに伝えられた無量の人々の魂と物語が
                明治天皇の基に集中し、爆発して、
                欧米列強の力を跳ね返し近代化を進める巨大な民族の力を生み出した時代である。
                そして、昭和天皇が、
                激動の昭和において貫かれたものは、
                太古からの日本の連続性=明治と昭和の連続性=戦前戦後の連続性である。

                また、このことは明治天皇ご自身の遺された意図そのものである。
                明治三十四年四月二十九日、
                ご誕生になった裕仁親王殿下を裕仁と命名されたのは
                明治天皇である。
                明治四十年一月三十一日、山県有朋が軍の中枢である「参謀総長」に推挙してきた
                乃木希典陸軍大将を、
                参謀総長にはせず学習院院長に任命されたのは
                明治天皇である。
                その時、明治天皇は山県に次のように言われた。
                「近く、朕の三人の孫達が、学習院に学ぶことになるのだ」
                そして、次の御製を詠まれた。
                  いさをある人を教えのおやにしておほしたてなむやまとなでしこ
                明治天皇は、次に皇太子となり天皇となる裕仁親王殿下の教育を
                最も信頼する武人、乃木希典に託されたのだ。
                そして、乃木希典は、全身全霊を挙げて裕仁親王殿下に接してゆく。
                大正元年九月、乃木希典学習院長は、
                山鹿素行の「中朝事実」を
                皇太子になられた裕仁親王殿下に渡し、よく読まれるように申し上げ、
                十三日に明治天皇の御跡を追って夫人とともに殉死した。
                翌日、乃木希典殉死の報を聞かれた裕仁親王殿下は、
                「落涙された」
                (昭和天皇実録より、実録に天皇の落涙を記してあるのはここだけである)。
                後年、昭和天皇は、
                「私の人格形成に最も影響のあったのは、乃木学習院長であった」
                と語れれている。
                ここに、明治天皇の思いとそれを受け継がれた昭和天皇を仰ぐことができる。
                また、明治天皇の、
                慶応四年(明治元年)三月十四日に、
                「五箇条のご誓文」とともに国民に発せられた「国威宣布のしんかん」
                そして、昭和天皇の昭和二十一年一月一日に発せられた
                「新日本建設の詔書」と次の御製二首
                ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松そををしき人もかくあれ
                冬枯れのさみしき庭の松ひと木色かへぬをぞかがみとはせむ
                これらは、昭和と明治の連続性を示す詔書と御製である。

                以上の通り、明治と昭和そして平成の連続性を確認し、
                再び、東アジアにおける
                明治の日清戦争と日露戦争の国難に匹敵する国難が迫る現在を見れば、
                我らは、
                明治の魂を甦らせて我が国の輝かしい未来を切り開くことを決意する以外にない。
                ここに、十一月三日の明治天皇のご誕生日を
                「明治の日」
                に戻して明治の志を現在の志とするべき国家的必要性がある。

                posted by: samu | 歴史認識 | 09:38 | - | - | - | - |
                昭和天皇と水際撃滅による本土決戦/西村眞悟
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                  昭和天皇の誕生日の翌日、
                  やはり「昭和天皇と本土決戦」のことを書いておきたい。
                  その上で、末尾に、
                  戦後という時代が始まるに直前まで、
                  大将から兵卒に至るまでの全ての兵士が
                  何を決意したのかを知るための絶好の一書を諸兄姉に薦める。
                  歴史を回復し、
                  日本を取り戻すために、
                  必読書と思うからである。


                  まず戦争に臨む二人の人物の言葉を記したい。

                  (1)私が一瞬でも、交渉や降伏を考えたとしたら、
                  諸君の一人一人が立ち上がり、私をこの場から引きずり下ろすであろう。
                  私は、そう確信している。
                  この長い歴史をもつ私たちの島の歴史が、
                  遂に途絶えるならば、
                  それは、我々一人一人が、自らの流す血で喉をつまらせながら、
                  地に倒れ伏すまで、戦ってからのことである。

                  (2)戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、
                  戦はずして亡国にゆだねるは、身も心も民族永遠の亡国であるが、
                  戦って護国の精神に徹するならば、
                  たとい戦いに勝たずとも、祖国護持の精神が残り、
                  我らの子孫はかならず再起三起するであろう。
                  統帥部としては、先刻申したとおり、
                  あくまで外交交渉によって、目的貫遂を望むものであるが、
                  もし不幸にして開戦と決し、
                  大命が発せられるようなことになるならば、
                  勇躍戦いに赴き、最後の一兵まで戦う覚悟である。

                  (1)の言葉は、
                  昭和十五年(一九四〇年)五月二十八日のイギリス議会における
                  首相ウインストン・チャーチルの演説である。
                  この時イギリス軍は、
                  一万の戦死者と三万の捕虜をだしながら
                  ドイツ軍にフランスのドーバー海峡に臨むダンケルクまで追いつめられ、
                  イギリス本土からは、
                  あらゆる漁船からレジャー用ヨットそしてボートまでがドーバー海峡を渡り、
                  ダンケルクの海岸からイギリス軍兵士を救出していた。
                  この時、イギリス政界にはナチスドイツの工作活動によって、
                  ドイツと「話し合おう」という有力な勢力があった。
                  しかし、チャーチルは、議会で断固としてイギリスは戦うと宣言した。
                  そして、伝記作家は次のように書いている。
                  このチャーチルの決断によって、
                  一年以内に三万人のイギリスの男性、女性、子ども達がドイツの手によって殺害された。

                  (2)の言葉は、
                  海軍軍令部総長永野修身が、
                  昭和十六年十二月一日の御前会議における開戦決定前に述べた覚悟である。

                  何故、この二人の人物の言葉を記したのか。
                  それは、イギリスと日本と、国は違っても、
                  祖国の戦いに臨む思いは同じであると確認したからだ。
                  チャーチルは、「本土決戦」の覚悟を表明し、
                  永野修身も「最後の一兵まで戦う」と述べた。
                  そして、イギリスは勝利し、日本は敗北した。
                  従って、チャーチルが言った
                  「自らの流す血で喉をつまらせながら地に倒れ伏すまで戦う」
                  準備をしたのは我が国だった。

                  しかし、戦後の我が国の風潮は、
                  敗北して歴史を奪われたが故に、
                  この「血で喉をつまらせながら地に倒れ伏すまで戦う」覚悟を
                  祖国の精神を後世に伝えるための尊い決意であることを没却し、
                  狂信的な軍国主義か集団発狂かのレベルで一笑に付すのである。
                  しかし、チャーチルが軍国主義の狂信者ではないように、
                  我が国の本当の「本土決戦」を決意した当時の国民も狂信の徒ではない。
                  然るに、
                  昭和四十二年封切られ、一昨年の平成二十七年に再び封切られた
                  我が国の終戦の日の八月十五日に関する映画「日本の一番長い日」は、
                  あまりにも皮相的で軽薄で、
                  真の「本土決戦思想」の本質は全く描かれていない。

                  そこで、昭和天皇と、
                  この「本土決戦」を見つめたい。
                  これこそ「身も心も永遠の亡国」か
                  それとも「護国の精神」を維持するか、
                  我が国の運命の境目だったからである。
                  そして、国民に対する放送において、
                  「國體を護持し得て」
                  と宣言され、
                  「確く神州の不滅を信じ」
                  と国民を励まされた
                  昭和天皇こそ、我が国の運命を決せられた御一人である。

                  結論から言うならば、
                  真実の「本土決戦思想」は、
                  レーニンの唱えた「敗戦革命戦略」、即ち、
                  我が国を「敗戦から革命へ」という
                  共産主義革命路線に雪崩れ込ませて共産化するという危機から切断し、
                  チャーチルと永野修身が唱える
                  「祖国護持の精神」を残すために戦おうとするものであった。

                  昭和天皇は、二度、壊滅に瀕した首都東京を眺められ都内を巡回された。
                  一度目は、大正十二年九月、関東大震災の時に、摂政として、
                  二度目は、昭和二十年三月十日のアメリカ軍の東京大空襲後の時に、天皇として。
                  この二度目の時に、政府は
                  天皇陛下に長野県松代に造った長大な地下壕のなかに造営した
                  「皇居」にお移りいただきたい旨申し出た。しかし、
                  天皇陛下は、東京に留まる、とその松代の皇居への移転を拒否された。

                  昭和十九年七月にサイパンが陥落し、
                  我が国の首都東京はアメリカ軍の爆撃圏内にはいる。
                  そして次に、フィリピン戦線での日本軍の敗北が決定的になって、
                  アメリカ軍の本土侵攻が可能となってきた。
                  そこで、陸軍省は、統帥部に計らず、
                  サイパン陥落の頃から東京から長野県の松代の地下に
                  大本営および政府関係機関また放送協会を移動させ、
                  さらに皇居を造営してそこに天皇陛下も移っていただく大疎開の突貫作業に入った。
                  そして、東京大空襲をうけて、
                  天皇陛下に、ほぼ完成した松代の地下皇居に移っていただこうとしたのである。
                  しかし、前記の通り、
                  天皇陛下は、お移りにならなかった。
                  最後まで、国民とともに危険な東京に留まろうとされたのである。

                  仮に、天皇陛下が松代に移られたら、
                  大本営も政府機関も松代に移ったであろう。
                  では、本土防衛戦は如何なる場所で行われたのか。

                  それは、房総半島と相模湾から上陸したアメリカ軍主力が
                  長野県の手前の中部山岳地帯に入ったところである。
                  そこまでの間でも住民を巻き込んだ徹底的なゲリラ戦を展開して消耗させたうえで、
                  山岳地帯に入ったアメリカ軍を膠着状態に陥れたときに、
                  松代の大本営の背後にある日本海からソビエト軍が上陸すれば、
                  日本の共産化が実現する。

                  これが当時、陸軍省内部にいた「親ソ連派軍人」の狙いであった。
                  これら親ソ連派軍人は、
                  「シナ事変の最中に陸軍省の各部局に入り込んできた召集将校たちであり、
                  その正体は右翼を装った転向共産主義者であった。」(大東亜戦争と本土決戦の真実」家村和幸著)

                  このように、大本営も皇居も松代の内陸部に移すということは、
                  上陸してきた敵を国土深く侵攻させて住民と共に徹底的な戦いをすることになる。
                  この皇居の移動を、きっぱりと拒絶されたのが
                  昭和天皇である。
                  昭和天皇は、最後まで、敵が上陸してくる海が見える東京の「水際」に留まり、
                  国民と共にある、と表明されたのだ。
                  御自身の身の危険のことは一切考慮されていない。

                  そこで、ここから、
                  天皇陛下の御決意とともに、
                  陸軍の対上陸作戦思想が如何に変わったかをみなければならない。
                  即ち、
                  後方で上陸軍を迎え撃って持久戦を展開するという
                  「後方配備」の思想から、
                  敵が上陸する水際で直ちに決戦を挑み、
                  「最後の一兵になるまで戦う」という
                  「水際撃滅」の思想に転換したのである。

                  この水際撃滅の思想は、
                  軍隊は、日本民族再興の基盤である国民を戦いに巻き込まずに守りとおし、
                  軍人は最後の一人に至るまで戦って死ぬというものだ。
                  これは何も狂信的ではない。
                  松代に後退して内陸で国民を巻き込んで戦う
                  そしてソ連の侵攻を待つ、という方が狂っている。

                  ドイツ軍司令官ロンメル元帥も、連合軍のノルマンディー上陸直前に言っている。
                  「勝負はこの海岸で決まる。
                  敵を撃退するチャンスは一度しかない。
                  それは敵が海のなかにいるときだ。」

                  昭和二十年六月、参謀次長通達「本土決戦根本義の徹底に関する件」に言う。
                  「いやしくも戦況苦難の故をもって当面の決戦を避け、
                   後退により持久を策するが如き観念は、
                   本土決戦の真義に反するものなり」

                  そして、この思想に基づき、帝国陸海軍は
                  「自らの流す血で喉をつまらせながら、地に倒れ伏すまで戦う覚悟をして」
                  我が国の水際の陣地構築の突貫作業に入った。
                  その上で、
                  昭和天皇は、
                  我が国の運命をかけた瞬間を乗り切っていかれ、
                  帝国陸海軍が戦いをやめて消滅した後にも
                  たったお一人で、
                  日本が日本であり続ける根源の姿、國體、を守り抜かれたのだ。

                  そこで、冒頭に記したように、
                  諸兄姉に、
                  是非次の本を読んでいただきたい。
                  この本は、
                  日本陸軍の最後に確立した水際撃滅思想の本質を、
                  元寇に次ぐ我が国の二度目の壮烈な本土防衛思想として位置付ける書であり、
                  我々の誇りを喚起してくれる書である。
                  著者は、陸上自衛隊の中佐(二等陸佐)で、
                  現在は、「日本兵法研究会」を主催する家村和幸氏である。

                  書名 「大東亜戦争と本土決戦の真実」
                  著者 家村和幸
                  発行者 奈須田若仁
                  発行所 並木書房
                     〒104−0061 東京都中央区銀座1−4−6
                  筺。娃魁檻械毅僑院檻沓娃僑
                  FAX 03−3561−7097

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                  時代は、戦艦「三笠」が戦った時に回帰している/西村眞悟
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                    四月二十一日は、午後六時から埼玉県大宮で、
                    我が国と周辺諸国X・Y・Z(自衛隊における仮想敵国の符丁)について講話をすることになっていた。それで、昼食を横須賀のドブ板横丁でとり、
                    その後、日露戦争における連合艦隊旗艦「三笠」を久しぶりに訪れて挨拶し、
                    原子力空母ロナルドレーガン(10万1500トン、全長333メートル)がいるのを確認してから埼玉に向かった。
                    以下、横須賀の情景と埼玉の大宮における話の概略を記してご報告とする。

                    海を背にして立つ東郷平八郎提督の銅像の背後に
                    連合艦隊の旗艦である戦艦「三笠」が「日の丸」と「Z旗」を掲げて係留されている。
                    「Z旗」を掲げているということは、
                    「三笠」は、明治三十八年(一九〇五年)五月二十七日、
                    敵艦見ゆとの警報に接し、鎮海湾から対馬北東海域に向けて連合艦隊を率いて、
                    国家の運命を背負って、ロシア帝国バルチック艦隊の迎撃に向かう時の旗を、
                    今も、掲げているということだ。
                    その「三笠」を見上げて船内に入れば、
                    我が国の歴史における帝国の興廃をかけた劇的な一瞬が、
                    そこに凝縮されて今も留まっているような思いがする。
                    フランスのドゴールが
                    イギリスのアジア支配の根拠地であるシンガポールの陥落(一九四二年二月十五日)
                    の報に接して言ったように、
                    二十世紀が、日本が数百年にわたる白人の世界支配を打ち破った世紀だとするならば、
                    その三十八年前の一九〇五年五月二十七日に、対馬沖で、
                    ロシアのバルチック艦隊を撃滅して日本の興廃を決した戦艦「三笠」は、
                    やはり二十世紀最大の世界史を創造した劇的な船である。
                    戦後の一時期、
                    東京の万世橋の駅前に立つ旅順閉塞作戦の英雄広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像が、
                    勝者の占領軍・GHQにおもねる卑しい日本人たちによって
                    自主的に破壊されて撤去された終戦後の情けない風潮のなかで、
                    よくぞ「三笠」は残ったと、その存続に尽力した人々に感謝する。
                    「三笠」は日本とアメリカの双方の心ある人々の尽力によって存続できた。
                    しかし、広瀬中佐の銅像を撤去した同じ卑しい風潮のなかで、
                    戦後しばらく、心無い者たちが、
                    「三笠」の甲板上にダンスホールを建てていたことも記憶すべきである。

                    次に、原子力空母ロナルドレーガンが、
                    海上自衛隊横須賀総監部の対岸のアメリカ海軍の岸壁に泊まっているのを確認した。
                    その本体はほとんど見えず艦橋の上部だけが見えた。
                    出撃はまだか、と思いもする。
                    手前の総監部の岸壁には、ヘリ搭載型護衛艦という名のヘリ空母「いずも」(1万9500トン、全長248メートル)と護衛艦「むらさめ」が係留されていた。
                    「いずも」は、ミッドウェー海戦で、敵空母「ヨークタウン」を撃沈して一矢を報いた
                    山口多門提督が乗っていた殊勲の空母「飛龍」(全長227メートル)とほぼ同じ大きさである。
                    我が国も、早急に、正真正銘の空母機動部隊を保持して
                    東アジアの海洋の平和を守らねばならない時代に入っていると思った。

                    そして、横須賀を後にして埼玉の大宮に向かう。大宮で話せと戴いた議題は
                    「これからの日本〜対中国、北朝鮮、韓国、ロシア〜」
                    つまり「日本とX・Y・Z」である。

                    (1)日本とX・Y・Zを文明圏として観れば
                    日本と西のユーラシア大陸の東にある中国、朝鮮、ロシアの間にある
                    日本海、玄界灘、そして東シナ海は、太平洋より広い。

                    ロシア人は、約束は破るものだと思っているので、破るために約束をする。
                    シナ人は、そもそも約束は守るものだと思っていない。

                    日本人は「嘘をつくな」と子供に教える。
                    即ち、日本は、嘘をつくことは悪いとする文明である。
                    大陸側は「騙されるな」と子供に教える。
                    即ち、大陸側は、嘘をつくことは悪くないとする文明である。
                    それ故、
                    X・Y・Zの兵法の基本は、
                    敵(異民族)を撃滅するために「敵を騙すこと」であり(孫子)、
                    日本の兵法の基本は、
                    天皇の下の和を回復するための「誠」である(闘戦経)。

                    このロシアとシナの密約が、
                    明治二十九年(1896年)の露清密約だ。
                    これは、日清戦争後のロシアの三国干渉の後、
                    清の李鴻章とロシアのロバノフ外相・ウィッテ蔵相との間で交わされた密約で
                    日本が、ロシアか清か朝鮮を攻めれば、
                    ロシアと清は共同して日本に対抗することを約した攻守同盟であり、
                    さらに、ロシアが李鴻章に渡す巨額の賄賂を以って
                    ロシアの満洲における鉄道施設と銀行設立(鉄道と銀行による征服)の対価とした、
                    つまり、李鴻章は満洲をロシアに売却した。
                    現在、李鴻章の子孫は、名前を変えてアメリカで富豪として生活している。
                    この露清密約は、
                    ロシアの満洲から朝鮮半島への南下を促進して日露戦争の原因となる。
                    しかし、我が国はこの密約を知らず、
                    日露戦争において、血を流してロシアを満洲から駆逐した。
                    そのおかげで、清はロシアに売却した満洲を何食わぬ顔をして取り戻したのである。
                    まことに、
                    十九世紀末の三国干渉と露清密約は、「東亜百年の禍根」である。
                    そして、現在、
                    ともに西太平洋に進出しつつあるこのロシアとシナの間に、
                    また、百二十年前の露清密約と同じ「対日攻守の密約」の匂いがするではないか。

                    (2)仮想敵国としてのX・Y・Z
                    二〇一五年九月二日、
                    仮想敵国Z=ロシアのプーチン大統領は、
                    仮想敵国X=中共の習近平主席の主催する「対日戦勝七十周年軍事パレード」に参加し、プーチン大統領と習近平主席は、
                    北京の天安門上で仲良く軍事パレードを見物した。

                    そのロシアは、我が国の領土である北方領土の不法占拠を続けている。
                    そして中共は、我が国の領土である尖閣を奪おうとしており、
                    さらに、琉球共和国独立構想を掲げて沖縄本島までをも飲み込もうとしている。
                    さらに、ロシアは、
                    我が国の固有の領土である北の国後と択捉にミサイル基地を建設している。
                    中共は、我が国の南のシーレーンが通る南シナ海に軍事基地を建設している。
                    即ち、我が国の南北の海洋に、ロシアと中共は、同時に軍事基地を建設している。

                    平成二十八年度の我が国航空自衛隊のスクランブル発進は千百六十八回であり、
                    その発進の七十パーセントが対中共空軍機、
                    三十パーセントが対ロシア空軍機である。
                    中共とロシア海軍は、昨年六月、南シナ海で合同軍事演習を行い、
                    同時期、我が国の宮古島沖領海をロシアと中共の軍艦が相次いで侵犯した。
                    このスクランブル発進回数は、一日三回の密度であり、既に冷戦期の密度を超えている。
                    つまり、我が国の北と南の空域は、
                    中共とロシアに挟撃されているかの如き緊張下にある。

                    ロシアの、国後・択捉におけるミサイル基地建設は、
                    オホーツク海をロシアのSLBMを搭載する潜水艦の聖域にするためだ。
                    そして、中共の南シナ海における基地建設と東シナ海の尖閣領有への行動は、
                    南シナ海と東シナ海全域を中共の海にするためだ。
                    そして、ロシアと中共の両国は、
                    我が国の東に広がる広大な西太平洋を中ロの海にしようとしている。
                    つまり、中ロ両国は、海洋国家である我が国の
                    「海洋の航行の自由」を奪おうとしている。
                    これ、恐るべき動き!ではないか。
                    やはり、Xの中共とZのロシアは、友好関係を築けるような行動はしていない。
                    これらは、仮想敵国にとどまらず、既に現実の顕在敵国である。

                    そして、仮想敵国Y=北朝鮮は、周知のとおり核とミサイルの開発を急いでいる。
                    アメリカのティラーソン国務長官は、
                    過去二十年におよぶアメリカの対北朝鮮政策の誤りを認めた。
                    我が国も、北朝鮮に巨額資金の提供を約束した平壌宣言に象徴される
                    対北朝鮮政策の誤りを認める必要がある。
                    そのうえで、日米両国の対Y共同対処を実施すべきである。
                    北朝鮮に対する影響力に期待して、
                    北朝鮮の非核化に関して中共に任せようとする風潮があるが、
                    これは強盗に町内防犯パトロールを任せるようなものである。

                    Yではないが、政情混沌としたなかで、北朝鮮への接近の動きのある韓国に対しては、
                    昨年に公表された筑波大学大学院教授の古田博司氏の次の論考に従うべきである。
                    「庶民である日本国民は、
                    あくまでも『助けず、教えず、関わらず』の非韓三原則で対処し、
                    彼らの騒ぎに巻き込まれないように、対岸の火事を見るがごとくし・・・
                    日本からの援助を求める韓国内の声に耳を貸してはならない(産経新聞朝刊、平成二十八年二月十日)。」

                    (3)我が国はいかに対処すべきか
                    それは
                    「平和を望むならば戦いに備えよ」
                    という古代ローマの軍学者の言葉に尽きる。
                    即ち、我が国は、今こそ、
                    平和のために戦う覚悟をせねばならない時にきている。

                    現在、北朝鮮の核ミサイルだけがクローズアップされて、
                    中共の核ミサイルやロシアの核ミサイルのことには目が閉じている。
                    しかし、既に見てきたように、我が国にとって、
                    既に実戦配備されている中共の核ミサイルやロシアの核ミサイルが、
                    北朝鮮の開発中の核ミサイルに勝る現実的脅威なのだ。
                    従って、我が国は、
                    ソ連が突きつけてきた中距離核弾頭ミサイルであるSS20に対して、
                    同じく核弾頭ミサイルであるパーシング兇鯑佑つけて、
                    「相互確証破壊」の体制を構築して対抗した
                    一九七七年九月の西ドイツ首相のシュミットのように、
                    X・Y・Zの核弾頭ミサイルに対抗する核弾頭ミサイルを
                    X・Y・Zに向けて配備する必要がある。
                    同時に、敵ミサイル基地撃破能力と敵ミサイルの迎撃能力を
                    保持しなければならないことは、もちろんのことである。

                    このようなことは、憲法上できない、
                    というのが「戦後体制」であることは分かっている。
                    同時に、
                    憲法を守って国が滅びて多数の国民が殺されることは、
                    断じて許されないこともわかっている。
                    従って、いざとなれば、憲法改正など間に合わないのであるから、
                    総理大臣は、
                    昭和二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」は、
                    占領軍が占領中に書いたものであるから無効であると宣言し、
                    「日本国憲法」に拠らずに事態に対処すべきである。

                    即ち、気が付けば、時代は、
                    戦艦「三笠」が戦った時に、
                    回帰している。
                    そのとき、
                    「日本国憲法」などは無いが、もしそれに基づいて日本が戦わなかったならば、
                    我が国は滅ぼされ我々は日本人として生まれていなかったことは確実だ。
                    この単純明快なことに目覚める時だ。

                    posted by: samu | 歴史認識 | 09:59 | - | - | - | - |
                    中学校の歴史教育で、「聖徳太子」が復活/藤岡信勝
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                      中学校の歴史教育で、「聖徳太子」が復活した。文部科学省が2月に公表した中学校の次期学習指導要領改定案で、現行の「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」に変更したことについて、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが関係者への取材で分かったとして、20日付けの産経新聞が伝えた。

                       2月14日、改定案が公表されてから、私たち「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーは直ちに行動した。役員会を開き、断固として闘うことを決定した。理事で、この問題の専門家である高森明勅氏を講師とする検討会を開いた。私は産経新聞に依頼して、正論欄に書かせてもらった。何年ぶりだろうか。「聖徳太子を抹殺する指導要領案」と題する拙文は、2月23日付けの産経新聞に載った。櫻井よしこ先生も、『週刊新潮』にこの問題を書いて下さった。

                       つくる会は声明文を作成し、FAX通信で流した。ネットからこの件について意見を書いている人の文章を借用して、資料集を作った。パブリックコメントをするときの参考資料である。国会議員に対しては、会の声明、高森氏の解説文、資料集をセットにして封書で送...った。こうした働きかけもあって、心ある人々は一斉に動き出した。

                       聖徳太子以外のその他の問題、公民的分野の問題もある。それらを含め、あらためて会の見解をもう一度まとめ、3月7日、文科大臣に申し入れた。そのあと、文科省記者クラブで記者会見を行った。朝日の記者は熱心に質問したが、翌日の朝刊で記事にしたのは産経だけ。「つくる会『聖徳太子守れ』 指導要領案変更取りやめの要望」という見出しがついていた。産経は社説でも、聖徳太子問題を取り上げていた。

                       3月15日、文科省のパブリック・コメントが終了した。その直後から16日までの間に、文科省が歴史用語の変更は断念したらしいとの情報を私は得ていた。22日には自民党の文科部会が行われる。この場に文科省の担当者を呼んで、問い詰めることになっていた。新聞はこの時の文科省側の回答をもとに記事にするだろうとよんでいた。それより一足先に報道された。ともかく、この問題で行動し協力したすべての方々に心よりお礼を申し上げる。ありがとうございました。、

                       ただ、産経の記事で気になるところがある。「文科省は小中ともに聖徳太子の表記に統一し、中学では日本書紀や古事記に『厩戸皇子』などと表記されていることも明記する方向で調整している」と書かれている。歴史上の特定の人物の呼称について、出典まで引用して別の呼称も書くように学習指導要領で強制するのはかつて例がなく、話が細かすぎる。文科省は未練がましく「厩戸」の文字をどうしても残したいようだ。日本国家誕生の物語を否定する将来の改訂の足がかりを残そうとしているかのようで、賛成できない。この話は朝日新聞にも出ているから、文科省側から意図的にリークしたのかもしれない。

                       このほかにも、目標の記述の仕方や、公民的分野の問題はどうなるのか、3月末の文科大臣告示で公表される改訂学習指導要領から目が離せない。

                      posted by: samu | 歴史認識 | 17:47 | - | - | - | - |