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 神社に宿る日本人の「和の心」/加瀬英明
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    4月24日に、カナダ最大の都市トロントで、男がバンを運転して、歩行者を次々とはね、多くの死傷者が発生する事件が起った。まだ、犯人の動機が判明していないが、イスラム国(IS)がかかわるテロ事件ではないか、疑われている。

     ヨーロッパも、イスラム過激派のテロに戦(おのの)いている。中東では、シリア、イエメン、リビアをはじめとする諸国で、イスラムの2大宗派のスンニー派と、シーア派による凄惨な抗争に、出口が見えない。宗教戦争だ。

     もっとも、アフリカ、アジアに目を転じると、イスラム教徒がキリスト教徒を迫害しているだけでなく、中央アフリカ共和国では大多数を占めるキリスト教徒が、ミャンマー、タイでは多数を占める仏教徒が、弱者のイスラム教徒を圧迫して殺害している。

     ミャンマーでは、事実上の最高指導者である、アウンサン・スーチー女史が黙認するもとで、イスラム教徒のロヒンギャ族を迫害している。70万人のロヒンギャ族が国外に脱出し、数百人が虐殺されている。

     タイでは、分離独立を求める南部のイスラム教徒を弾圧して、この15年だけで、7000人以上のイスラム教徒が殺害されている。

     スリランカでも、人口の70%を占める仏教徒が、17%に当たるイスラム教徒を迫害して、多くの生命が失われている。

     日本では、仏教は平和の宗教だと思っているが、日本のなかだけで通用することだ。

     インドは平和国家として知られているが、毎年、多数派のヒンズー教徒がイスラム教徒を襲撃し、多数の死者が発生している。イスラム教徒が、ヒンズー教の聖牛である牛を殺して、食べることから敵視されている。

     アメリカでも、人権が高らかに謳われているのにかかわらず、人種抗争が絶えない。「個人」が基本とされている社会だから、人々が対立しやすく、人と人との和を欠いている。銃による大量殺戮事件が多発している。

     中国では、漢民族が新疆ウィグル自治区でイスラム住民を、世界の屋根のチベットでジェノサイド(民族抹殺)をはかっている。

     そこへゆくと、日本は幸いなことに、太古の時代から宗教戦争と、無縁であってきた。

     「宗教」という言葉は、明治に入るまで漢籍に戴いていたが、使われることがなかった。

     明治初年に、キリスト教の布教が許されるようになると、それまで日本には他宗を斥ける、独善的な宗派が存在しなかったために、古典から「宗教」という言葉をとってきて、あてはめたのだった。

     それまで、日本には「宗門」「宗旨」「宗派」という言葉しかなく、宗派は抗争することなく、共存したのだった。

     「宗教」は、英語の「レリジョン」(宗教)を翻訳するのに用いた、明治訳語である。

     英語の「レリジョン」、フランス語の「ルリジオン」、ドイツ語の「レリジオン」の語源であるラテン語の「レリギオ」は、「束縛」を意味している。

     「個人」も、明治訳語だ。日本人は世間によって生かされ、そのなかの一人だった。

      日本人のなかで、日本人は年末になると、クリスマスを祝い、7日以内に寺の“除夜の鐘”を謹んで聴いて、夜が明けると初詣に急いで、宗教の梯子をするからいい加減だと、自嘲する者がいる。

     だが、これが日本の長所であり、力なのだ。古代から「常世(とこよ)の国信仰」といって、海原の彼方から幸がもたらされると信じた。日本では何でも吸収して、咀嚼して役立てるのだ。

     神道は私たちが文字を知る前に生まれた、心の信仰であって、文字と論理にもとづく宗教ではない。人知を超える自然を崇めるが、おおらかで、他宗を差別せず、中央から統制する教団も、難解な教義も、戒律もない。

     神社を大切にしたい。私たちは、心の“和”の民族なのだ。

     


      大嘗祭は国事として行うべきである

      

     1年以内に、新天皇が即位され、御代(みよ)が替わる。

     前号で、私は天皇陛下が来年4月30日に退位され、皇太子殿下が翌日、第126代の天皇として即位されるのに当たって、もっとも重要な祭祀である大嘗祭(だいじょうさい)を寸描した。

     126代も続いてきた天皇が、日本を日本たらしめてきた。

     天皇は日本にとって、何ものによっても替えられない尊い存在であり、日本国民にとって、もっとも重要な文化財である。

     大嘗祭は来年11月に、皇居において催される。大嘗祭は法律的にすでに皇位につかれておられるが、天皇を天皇たらしめてきた民族信仰である惟神(かむながら)の道――神道によれば、まだ、皇太子であられる皇嗣(こうし)(お世継ぎ)が、それをもって天皇となられる。聖なる秘儀である。

     私は前号で大嘗祭に当たって、皇太子が横たわれ、しばし、衾(ふすま)(古語で、夜具)に、身をくるまられると、述べた。

     これは、天照大御神の皇孫に当たる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国(くに)を治めよ」という神勅に従って、赤兒として夜具にくるまれて、天孫降臨されたことから、皇太子が身を衾に包む所作を再演されることによって、瓊々杵尊に化身されるものである。

     今上天皇が今年の新年に宮中参賀のために二重橋を渡った、13万人をこえる善男善女に、皇后、皇太子、皇太子妃、皇族とともに会釈され、お言葉を述べられたが、天皇はモーニングを召された瓊瓊杵尊であられた。

     天皇は皇位をただ尊い血統によって、継がれるのではない。

     日本では、日本神話が今日も生きている。神話は諸外国では、遠い昔の過去のものであって、ただの物語でしかない。日本は時空を超えて、永遠に新しい国なのだ。

     歴代の天皇は、日本を代表して神々に謙虚に祈られることによって、徳の源泉として、国民を統(す)べて、日本に時代を超えて安定(まとまり)をもたらしてきた。

     神道は、人知を超えた自然の力に、感謝する。世界のなかで、もっとも素朴な信仰である。

     教義も、教典ない。人がまだ文字を知らなかった時代に発しているから、信仰というより、直感か、生活態度というべきだろう。

     神道は、人が文字を用いるようになってから、生まれた宗教ではない。感性による信仰だから、どの宗教とも競合しない。

     宗教法人法によれば、宗教法人は教義を広め、信者を教化する団体として、規定している。神道は布教しないし、もし宗教であれば、「信者」と呼ばれる人々も、存在しない。

     アメリカ占領軍は、自国では国家行事や、地方自治体の式典が、キリスト教によって行なわれていたのにもかかわらず、まったくの無知から神道を、キリスト教と相容れない宗教だと信じて敵視して、日本に「政教分離」を強制した。当時のアメリカは、日本を野蛮国とみなしていたのだった。

     政府は日本が独立を回復した後にも、現行憲法下で、天皇を天皇たらしめている宮中祭祀を、皇室の「私事」として扱ってきた。

     私はかねてから、宮中祭祀は国民の信仰の自由を浸すことがないし、日本国民にとって何より重要な無形文化財であると、主張してきた。

     大嘗祭は、国事として行うべきだ。現行憲法は皇室と日本の姿を、歪めている。
    posted by: samu | 歴史認識 | 09:31 | - | - | - | - |
    元駐日イスラエル大使、コーヘン氏が諭す「神の国 日本」葛城奈海
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      元駐日イスラエル大使、エリ・コーヘン氏が『神国日本』を上梓(じょうし)した。居合五段、空手は流派最高位という同氏と出版記念講演会で対談し、日本への造詣の深さに感じ入るとともに「イスラエル建国の父」ヨセフ・トランペルドールの逸話に心打たれた。

       帝政ロシアに生まれたトランペルドールは学位がありながら、あえて一兵卒としてロシア軍に従軍。ユダヤ人として差別を受けるも勇敢さと国への忠誠を証明しようと最前線での戦いを志願し、日露戦争で左腕を失った。退院後、片腕だけで使える軍刀とピストルを手に再び前線に舞い戻り、敗戦。捕虜として大阪の浜寺収容所に送られた。

       日本では宗教や民族を理由に迫害されることはなく、母国ロシアで味わえなかった自由を初めて経験した。持ち前の積極性を発揮し「ユダヤ人捕虜組織」を設立、収容所の中に学校、工場、図書館、劇場まで造ったというから驚きだ。ちなみに彼は、明治天皇から義手を賜っている。

       戦場で死をも恐れず戦う日本兵を目の当たりにし、日本での捕虜生活を通して大和魂、武士道精神を体感したトランペルドールは主権を持つことの大切さに目覚め、ユダヤ人国家再興を使命として自覚するに至った。「その意味でイスラエル建国の礎となったのは、日本の武士道精神」とコーヘン氏は語る。日本人としては光栄だが、では肝心の日本人は今、どうなのか。

       初代天皇の名にも表れているように、日本は元来、神と武を尊ぶ国であった。神話の時代から連綿とつづく日本らしさ、国体の中心におられるのは、歴代の天皇陛下だ。と同時に、一木一草にも神は宿り、恵みを与えてくれる八百万(やおよろず)の神々への感謝と畏敬の念を抱きながら、日本人は生きてきた。その意味で、日本は神の国であろう。

       唯一絶対神と混同され、数々の誤解を招いてきたが、それをあえて堂々と著書のタイトルに冠したコーヘン氏に敬意を表するとともに、本家本元の日本人が日本の国柄とそれを守るための武の精神を取り戻すことこそ、先人たちの志を継ぐことなのではとの思いを強くした。

      posted by: samu | 歴史認識 | 18:14 | - | - | - | - |
      志の人・伊能忠敬没後200年と、明治維新150周年/加瀬英明
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        今年4月21日に、東京千代田区神田の学士会館で、『忠敬没後200年記念・伊能測量協力者顕彰大会』が催された。

         忠敬は寛政12(1800)年に深川・富岡八幡宮に成功祈願を行ったうえで、徒歩による全国海岸線の実測に出発したが、17年後の文政元(1818)年に、測量続行中に、73歳で病没し、その3年後に、門弟たちによって、『大日本沿岸輿地全図』が完成した。

         伊能図協力者子孫への感謝状

         学士会館のホールには、伊能忠敬研究会の努力によって、全国にわたって忠敬の測量に協力した、名主や、庄屋、本陣、代官、目付などの子孫が特定されて、そのなかの76人が、研究会、イノペディアをつくる会、伊能忠敬子孫一同から、「功績感謝状」が贈られた。

         忠敬の測量は、蝦夷地から始まり、伊豆七島まで9次にわたった。忠敬の『日本全図』は「伊能図」とも呼ばれるが、今日、埋め立てによって海岸線が大きく変わっているものの、誤差がほとんどなく、きわめて正確なものだった。

         協力者の子孫の名が呼ばれるたびに、「駿河国沼津領野村名主」とか、「陸奥国」、「出羽国」、「越後国」、「遠江国」、「佐渡国」、「播磨国」、「若狭国」、「豊後国」というように、当時の地名が用いられたので、そのあいだ、江戸時代に生きているような錯覚にとらわれた。

         忠敬の子孫の代表

         忠敬の多くの子孫が招かれたが、私を含む5人が代表して登壇した。

         私は忠敬の孫の孫の子である玄孫(やしゃご)に当たるが、忠敬の次女のしのが、銚子の隣にある旭村(現・旭市)の加瀬佐兵衛に嫁いだことによる。

         忠敬は九十九里浜の貧しい漁村に生まれ、幼年時代は恵まれなかったが、向学心が高く、漁具を収める浜小屋の番をしながら、勉学に励んだ。佐原の家運が傾いた庄屋の伊能家に、養子として迎えられたことが、人生の転機となった。酒造業を建て直すかたわら、暦学、和算、天文学、測量学を学んだ。

         今年は、明治維新150年に当たる。日本は明治に入ると、近代化に短時間で成功し、西洋列強と肩を並べるようになったが、これは江戸期の庶民の力によるものだった。私は庶民の血を受け継いでいることに、大きな誇りをいだいている。

         忠敬の測量に協力した人々は、大部分が庶民だった。幕府から藩に、忠敬の測量隊がいつ到着するか連絡があると、藩から村へ伝えられ、村民が総出で測量に協力した。

         明治3年の初の国勢調査 

         武家は明治3年に初めて行われた、国勢調査によれば、人口の8%弱にしか、当たらなかった。人口の90%が民庶とも呼ばれた、庶民だった。

         江戸時代は近代日本を創った、輝かしい助走期だった。日本は世界に誇るべき社会を、形成していた。

         今年は、政府が「明治維新150年」を祝う式典を行うことになっている。

         50年前に100周年が巡ってきたが、当時の政府は「維新」という言葉を省いて、「明治100年記念式典」を催した。

         時の佐藤栄作首相が挨拶したが、「維新」という言葉に触れることが、まったくなかった。維新を語らずに、明治100年を語っても意味がない。

         昭和天皇のお言葉「明治維新以来の先人の英知と勇気」

         この時の式典に、昭和天皇の御幸を仰いだが、お言葉のなかで、「明治維新以来の先人が、英知と勇気で成し遂げた業績」と、仰せられた。

         明治維新が「革命」だったと、物識り顔をしていう学者がいるが、まったく筋違いだ。「革命」は断絶をもたらす。維新は古来の日本へ復古する、御一新だった。

         今年の「明治維新150年記念式典」において、今上天皇から聡明なお言葉を賜ることになるが、朝鮮半島危機が募るなかで、明治維新を称讃されて、国民をお励まし下さることと思う。

         だが、日本国民がどうして150年前と較べて劣化して、かつての気概を失い、不甲斐なくなってしまったのだろうか。

         幕末から明治にかけた日本国民は、「英知と勇気」が汪溢していた。今日の日本人のような、意気地(いくじじ)なしではなかった。

         伊能忠敬の偉業は日本の社会の力そのもの

         それにしても、忠敬が全国を徒歩によって実測した、17年間の日本の社会が安定し、豊かで、よくまとまっていたことに、感心せざるをえない。それでなければ、忠敬の偉業が多くの人々によって支えられて、成し遂げられることがなかった。

         忠敬が測量のために、全国を巡っていた時に、対岸の朝鮮王国では、国王純祖(スンゾ)(在位1800年〜39年)の代に当たった。

         悪政のために、飢饉、悪疫、天災によって、農民や、奴婢(奴隷)の流亡と、不平両班(ヤンバン)や、農民、奴婢による反乱が、各地であいついだ。なかでも、純祖11(1812)年に起った、平安道の洪景来(ホンギョンレ)の乱が大きなものだった。

         当時の韓国の状況

         そのわきで、朝廷では士禍(サファ)と呼ばれたが、儒教の些細な礼法などをめぐって、凄惨な党争(ダンチョン)に明け暮れ、国の態(てい)をなしていなかった。

         権力者が王権を代行して、政治を専横する勢道政治(セドチョンチ)のもとで、役人の綱紀が乱れ、下級官吏まで賄賂が横行した。朝鮮王国は、亡国が避けられなかった。

         今日、朝鮮半島で危機的な状況が続いているのをよそに、日本で国会がモリトモ問題、セクハラを巡って党派抗争に耽って、空転しているのと、よく似ている。

         今日の日韓関係に目を転じると、韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領が北に秋波を送るかたわら、ことあるごとに日本を蔑んで、足蹴にするのに忙しい。

         そのために、日本では嫌韓感情が日増しに強まっている。いまや、全国民が韓国を蔑み、哀れむようになっている。

         だが、私たちにいったい、韓国を蔑む資格があるものだろうか。

         韓国は日本統治が終わって、すでに73年になるのに、いまでも「日帝時代」が悪かったと非難して、自立できないでいる。日韓併合は73年の半分の、36年でしかなかった。

         日本でも、アメリカによる占領が65年前に終わったというのに、東京裁判をはじめ、アメリカの占領政策が悪かったからといって、占領時代を非難するのに忙しく、いまだに自立することができない。韓国によく似ていると思う。

         韓国では、李氏朝鮮が日韓併合まで、500年にわたって続いた。李朝は高麗朝の将軍だった李成桂(イ・ソンゲ)が、クーデターによって高麗朝を倒して、自らの王朝をたてた。

         李朝は、軍がクーデターを起す危険な存在だとして嫌って、軍を軽んじ、国防に役に立たない必要最小限の兵備しか、持たなかった。宗主国の中国による保護に依存して、外敵の侵略を蒙るたびに、中国に救援を求めた。そのために、国土が何回にもわたって、蹂躙された。

         今日の日本は、中国をアメリカに置き換えると、李氏朝鮮と変わらない。

         日本の国会議員や、大手のマスコミ人、学者たちには、朝鮮服が似合うのではないかと思う。

         明治新政府の開港の決断こそ、日本を救った

         明治維新に戻ると、幕府が開港に傾いたのに対して、国学者や武士の大多数が、日本が神国であると唱え、攘夷を頑くなに主張した。もし、攘夷を貫いていたとすれば、西洋列強の侵略を蒙って、本土決戦が戦われたことだった。

         明治新政府が開港に踏み切ったことによって、日本が救われた。

         今日、「平和憲法」を「神国思想」にいい替えて、神聖視する護憲派は、幕末の狂信的な「攘夷派」に当たる。「専守防衛」を頑くなに主張しているが、敵が国土を侵すまで戦えないのだから、焦土をもたらす本土決戦を望んでいるにちがいない。

         

        posted by: samu | 歴史認識 | 14:10 | - | - | - | - |
        「南京事件II 歴史修正を検証せよ」藤岡信勝
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          「南京事件II 歴史修正を検証せよ」が、日本テレビで5月14日0時55分から約50分間放映された。これは、同局が「NNNドキュメント18」としてシリーズで企画した番組の枠のなかにあるもののようだが、この南京事件のテーマに関しては、戦後70年の2015年10月4日に放映された「南京事件 兵士たちの遺言」に続くもので、だから「II」という番号が付けられているのである。

           

          前回の放送は、会津若松歩兵第65連隊の兵士の日記をもとに、幕府山付近で拘束された支那兵が、昭和12年(1937年)12月16日と17日の2日間、揚子江河畔で処刑された事実を暴露したものであった。この取材の中心になっているのは、清水潔というジャーナリスト(1958年生まれ)で、著書『「南京事件」を調査せよ』(2016年8月、文藝春秋刊)に詳細が書かれている。

           

          今回は、南京事件がなかったとする「歴史修正主義」の言説の一つ、「自衛発砲説」の原点となった新聞記事を書いた福島民報の記者・阿部輝郎氏(85歳)に取材し、「支那兵を揚子江の河畔に連れて行ったのは、彼らを逃がすためであったが、途中で反乱が起こったので支那兵を殺さざるを得なくなった」という歩兵第65連隊隊長・両角業作大佐の証言が、戦後になって自分の責任を回避するために捏造されたものであると思う、という証言を取ることが番組のねらいの中心であったと思われる。だから、サブタイトルが「歴史修正を検証せよ」なのである。

           

          日本のメディアは性懲りもなく、南京事件を「あった」ものとして、今後もいつまでも追及し続けるのだろう。それは今後100年、200年と続くだろう。しかし、私達はこのことに、動揺する必要はない。あらゆるものごとは、対象から少し距離をおいて、より広い視野から捉え直す必要がある。こういう観点から、この番組が象徴する、メディアの南京事件をネタにした反日キャンペーンにいかに対応するかという問題について、以下のことをメモとして書いておきたい。アット・ランダムに書くが、通し番号を付ける。

           

          (1)まず、この「清水チーム」の今回のプロジェクトは、何も新しいことを発掘した訳ではなく、すでに知られていたことを、資料と映像で裏付け、番組として構成したものである。視聴者にプレゼンした、というところに意義がある。

           

          (2)テーマは、南京事件研究史の中では「幕府山事件」として知られる有名な事件を素材として、「捕虜の不法殺害」のかどで日本を糾弾するものになっているが、実はこれは「虐殺あった派」の最後のよりどころとして残された事件なのである。以前にはまことしやかに語られていた、「南京城内における市民の大虐殺」などは、すでに東中野修道氏やその他の心ある研究者の手によって完全に論破され、今日では話題にする者もいない。幕府山事件は、追い詰められた「虐殺あった派」の、最後の最後に残されたトラの子のテーマなのである。研究史のこういう大局的な力関係を見失ってはならない。

           

          (3)ところで、私は、20年前ほど前から、南京事件に関わる旧軍関係者の話を聞く機会があったのだが、幕府山事件の話になると微妙に言葉を濁して、あまり論じようとしない傾向があることに気付いていた。おそらく、支那兵の大量殺害の事実は、弁解しにくいと思っていたのであろうと推測する。

           

          (4)この旧軍関係者に欠けていたのは、戦時国際法の知識と、その正確な適用方法であったと考えられる。「南京大虐殺はあったのか」と問われれば、私の答は「全くなかった」というものであるが、それは日本軍が支那兵を殺さなかったと主張しているのではない。虐殺とは戦時国際法に照らした「不法殺害」のことであり、揚子江河畔の支那兵の大量殺害についても、それが「虐殺」であったかどうかは、唯一、戦時国際法を基準に、それが「不法殺害」だったかどうかで判断されるべきなのである。そして、私の結論は、断じて不法殺害ではない、というものである。だから、南京事件の日本軍による「虐殺数」は「ゼロ」なのである。揚子江河畔の出来事は、一つの戦闘行為であるに過ぎない。

           

          (5)戦時国際法のことは、旧軍の将校には教えられていただろうが、一般の兵士はどの程度教育されていたのかはわからない。戦後の日本は、全く、どこでも戦時国際法のことなど教育されなかった。だから、1990年の湾岸戦争の時、戦時国際法が問題となったとき、当時の海部俊樹総理大臣が「戦時国際法って何?」と質問したという、有名な話があるのである。戦後教育を受けた我々は、みんな海部さんと同じである。

           

          (6)幕府山事件で、戦闘中の当時の日本軍には、あれ以外の選択肢はなかった。戦時国際法から見て、日本軍の行為がシロであることは、当時の戦争の相手方であった蒋介石も毛沢東も両者とも認めているのである。敵のトップがシロとして扱っているものを、どうして日本の学者やメディアがクロの証明をして回ろうとするのか、愚かなことだが、ここが最大のポイントである。

           

          (7)反対に、テレビで放映された事実そのものは、部分的な誇張や間違いがあるかも知れないが、全否定する必要は全くない。戦争とは悲惨なものであり、戦争のどんな場面でも、切り取って、平和なお茶の間で放映すれば、兵士は悪魔に描かれるだろう。どこの国でも同じことである。だから、放映された事実が間違いなのではなく、それを文脈抜きで、つまみ食いしてお茶の間に流すことが不当なのである。

           

          (8)ただし、それでも、清水氏やプロデューサー氏らが、4年の歳月をかけて、国内外で取材をしてまとめたビデオだから、それは事実の確認作業として、評価してもよいものである。よくおやりになったと言えばよい。番組はプロパガンダではあるけれども、番組を事実の捏造という方向で批判するのは、先方の術中にはまることになる。いずれ、清水氏や番組の担当者氏を、シンポジウムに招待したいと思う。

           

          (9)前回の日本テレビの2015年10月4日の放送のあと、10月12日午後8時からのBSフジの生番組「プライム・ニュース」で、この問題について私が出演した。どうして私にお鉢が回って来たのかは分からない。相手は秦郁彦氏と山田朗氏の二人で、「2対1」という不公平な取り組みであり、おまけに最後にはテレビ局までが、揚子江河畔の殺害に参加した日本兵の証言などをフリップで提示し、組み合わせは最後は「3対1」になるという一方的なものであった。日本兵の証言は事実の反映であり、殺害が悲惨なものであることは当然なので、これを否定することはしなかったが、戦時国際法違反の不法殺害ではないことを、もっと視聴者にわかりやすく、印象的に話す準備が足りなかったことは、私の反省点であった。

           

          (10)そこで、私は、『正論』2016年2月号に、「『南京大虐殺』論争の最新焦点」という論文を書き、幕府山事件についての私見をあらためて整理して書いた。このなかには、証言という資料の特性について、「人の大集団の人数についての証言は、最も信用できないものである」という命題など、いくつかの論点を提示しておいた。(ちなみに、幕府山事件で処刑された支那兵の総計は、たかだか2000人程度と考えられる)

           

          (11)また、当代の若手のオピニオンリーダーである倉山満氏に、つくる会歴史検定講座の講師として戦時国際法の講義を依頼し、その講義録を拡張して、『歴史戦は「戦時国際法」で戦え』(自由社ブックレット、2016年4月刊)という本を書いていただいた。

           

          (12)さらに「つくる会」の内部で、「歴史戦と教科書研究会」というグループがつくられ、小山常実氏をチューターにして、戦前の戦時国際法の専門書を読破し、戦時国際法を理論的な基礎から学ぶ作業が始まっている。研究会の開催は、すでに10回近くになっている。

           

          (13)また、埋もれていた通州事件について、通州事件アーカイブズ設立基金をつくり、書籍の発行(すでに8冊の単行本が刊行されている)、ユネスコへの「世界の記憶」への登録申請、などの活動を進めてきた。南京事件の半年前に起こった通州事件では、国民党・共産党が共謀して、通州在住の500人の無辜の日本人に襲いかかり、支那兵は陰部突刺、眼球抉り取り、腹部切断、内臓引き出し、等々の猟奇的残虐の限りを尽くしたのである。戦時国際法の復仇の法理に照らせば、日本軍の行為の違法性は阻却されるに十分である。つまり、南京事件と通州事件を併せて捉える視座を持たなければ、当時の全体像は見えないのである。

           

          (14)通州事件と南京事件を比較して、何よりも強烈な対比は、日本軍の兵士が本当に人を殺すのをいやがっており、戦後はトラウマとなって苦しんでいるのに対し、支那人は殺人を最大の快楽として嬉々として日本人に対する猟奇的行為をほしいままにし、一片の反省もないことである。こうしたことを、総体として知らなければ、歴史の真相に到達できるものではない。

          posted by: samu | 歴史認識 | 09:45 | - | - | - | - |
           御代替りに私たちが考えるべきこと/加瀬英明
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            3月は、国会が「森友問題」で忙殺された。

            そこに、5月に米朝首脳会談が行われるというニュースが飛び込み、北朝鮮の金正恩委員長が北京を電撃訪問して、世界を驚かせた。

            そのためだろうか、来春、天皇陛下が退位され、御代替りにともなう重要な一連の式典や、祭祀が行われるが、国民が十分な関心を向けていないと思う。

            今上天皇は退位されるのか、譲位されるのか

            今上陛下が「天皇退位等に関する皇室典範特例法」に従って、来年4月30日に退位され、翌日、126代目の天皇が即位される。

            今年の新年参賀には、13万人を超える善男善女の波が皇居を訪れた。来年、譲位される陛下への崇敬の念と愛借の情が、皇居へ向かわせたのだった。

            私はここで不本意に「退位」という言葉を使っているが、退位はロシア革命によって、皇帝が退位を強いられ、あるいは第2次大戦の敗戦によって退位を強いられた、イタリアの国王に起ったことである。

            退位は王朝が絶えることを、しばしば意味した。

            今上陛下のご意志によって、来春、皇太子に皇位を譲られるのだから、譲位というべきだった。

            ところが、政府も国会も「特例法」のなかで、なぜか「退位」という言葉を用いている。

            一昨年8月8日に、今上陛下がテレビを通じて譲位されたいという、御意向を明らかにされた。

            私は月刊『WiLL』誌(平成28年10月号)に、「これは、天皇によるクーデターだった。お言葉のなかで、皇室典範が定めている摂政制度を斥けられたが、天皇が法を改めるよう要求されることは、現憲法下であってはならないことだった」と、寄稿した。

            陛下の御意志に従って、譲位を実現するために、皇室典範を改めなければならなかった。

            そのために、政府も国会も、天皇の御意志によって法律を改めたのでなく、陛下の御高齢に配慮して、法を改正したという体裁を繕って、退位という言葉を用いた。

            即位にともなう祭祀は、それなしに皇統の継承が成り立たないのに、憲法が定める「政教分離原則」に従って、「私的な皇室行事」とみなされ、国事として催されない。

            来年11月に、新天皇によって大嘗祭が行われる

            来年11月14日に、新天皇によって大嘗祭(だいじょうさい)が執り行われる。

            新天皇の誕生に当たって、天皇が行われる最初の新嘗祭(にいなめさい)である大嘗祭が、もっとも重要な祭祀であってきた。

            もっとも、「皇室の行事」は「皇室の公的な行事」であって、大嘗祭が「国事行為」とされない理由として、憲法上、天皇の「国事行為」は「内閣の助言と承認」を必要としており、皇室祭祀には適用されないという説明もあるが、強弁でしかなかろう。

            大嘗祭のために、黒木と呼ばれる、木肌のままのクヌギの丸太を用いた悠紀殿(ゆきでん)と、主基殿(すきでん)の2つの大嘗宮が造営される。

            両殿はまったく同じ造りで、床下は土間のうえに草をしいて、そのうえに竹簀を置く。奥の部屋は大地に蓆(むしろ)をしいただけで、そのうえに衾(ふすま)と呼ばれる夜具が置かれる。

            古代が21世紀に生きている

            新嘗祭は新穀の収穫を、神々に感謝する祭である。大嘗祭はまず悠紀殿において「夕の儀」が行われ、天皇は天照大御神が降臨されると、新穀の米飯と栗飯を3箸ずつ、柏の葉を重ねた器(うつわ)に盛られて、おすすめする。

            柏の葉の皿を枚手(ひらて)といい、箸は2本棒ではなく、箸の原形とされる、削いだ竹を火で焙ってピンセット状にしたものだ。大嘗祭は「おほにへまつり」と呼ばれた、古いお祭りである。

            天皇は神饌を御親供になられたうえで、奥の部屋へ移られ、衾にくるまられる。赤児の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が夜具にくるまれて、高天原から天孫降臨されたのを再演される。

            「夕の儀」が終わると、主基殿において「暁の儀」が夜を徹して行われるが、まったく同じ内容の祭祀が繰り返される。

            政府は大嘗祭が“皇室の私事”として催されるが、内廷費で賄えないので、国費を支出するとしている。

            4月3日の閣議は、「大嘗祭の挙行については、『即位の礼・大嘗祭の挙行等について』(平成元年12月2日1日閣議口頭了解)における整理を踏襲し、今後、宮内庁において遺漏のないよう準備を進めるものとする」と、口頭で了解した。

            政府が大嘗祭を遺漏なく準備することは、「政教分離原則」に反しているが、野党もマスコミも異論を唱えまい。

            天皇が憲法に優っておられた

            天皇こそ、日本の芯である。そこで、天皇が行われる祭祀は、皇室の“私事”として扱うような、軽いものではあるまい。

            それとも、アメリカの占領下で強要した現行憲法が、日本の芯なのだろうか?

            だが、今上陛下が一昨年テレビを通じて、憲法に違反して法律を改めることを要求されたのにもかかわらず、国会が全会一致によって御意向に従ったことは、天皇が現行憲法よりも上にあることを、証したものだった。

            履き違えた「政教分離」

            アメリカ占領軍はまったくの無知から、神道を未開なというと、野蛮な宗教とみなして、「政教分離」を強制したのだった。アメリカは同じ敗戦国のドイツも占領して統治したが、ドイツはキリスト教国だったから、もちろん、「政教分離」を強要しなかった。もし、日本がフィリピンのようなキリスト教国だったとしたら、アメリカは日本に「政教分離」を強いることがなかった。私たちが神道を蔑視し続けて、よいものだろうか。

            いったい、現行憲法は日本という国より上にあって、日本国よりも尊いのだろうか?

            護憲派の人々は、日本国憲法が日本国よりも上にあると、主張している。

            だが、現行憲法の出自は暗いし、日本の国としての悠久の歴史とくらべれば、まだ70年しかたっていない。

            天皇こそが、日本を日本たらしめている。天皇の存在がない日本を、とうてい想像することはできない。

            天皇の存在がなくなってしまえば、日本は滅びてしまおう。断絶のない国体が、日本に気品を与え、日本を和の国として安定をもたらしてきた。

            今日の日本国民のなかで、どれだけの者が新嘗祭、大嘗祭はもちろんのこと、天皇家の起源を語っている日本神話について、知っているものだろうか。

            学校教育は国民の心を受け継いでゆくために、行われるべきものだ。憲法の目的も、2000年以上にわたる悠久の日本の心を守ることが、もっとも大きな役目であるべきだ。現行憲法は、日本を敵視している。

            天皇の御存在が、危ふいものとなっている。平成28年に、秋篠宮家に悠仁親王が御誕生になられたが、このままでは皇統が遠からず絶えてしまうことになろう。まさに国難である。占領下で臣籍降下を強いられた11宮家のなかから、ふさわしい男子に皇籍復帰をお願いするべきである。

            人も国家も、伝統精神と現代精神が交わるところで、生きなければならない。

            いったん伝統精神が失われてしまえば、人も国家も糸が切れた凧(たこ)のように、あてどもなく世界を漂うことになってしまう。国家が漂流してよいものか。日本は押しつけられた、借り物の現行憲法のもとで、使い捨てのプラスチックの造花に似ている。

            宮中祭祀は国民のために行われる

            日本国憲法のもとで、天皇が「象徴天皇」として、神聖な存在でなくなってしまっている。

            日本国民の大多数が、天皇が神々(こうごう)しい存在であることを認めているが、憲法は現実から遊離している。

            現実からかけ離れた憲法は、国民の精神を狂わせる。人はしっかりと両足を大地につけて、立たなければならない。

            posted by: samu | 歴史認識 | 11:28 | - | - | - | - |
            朝日新聞は築地の現社屋/藤岡信勝
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              朝日新聞は築地の現社屋の建っている土地を1970年代に、国から事実上、「無償供与」された。評価額は「977億円」になり、現在、国会で問題になっている森友学園国有地問題の「8億円」など比較にならない巨額です。
              以下、近現代史研究家・ジャーナリストの水間政憲氏による「海軍経理学校跡地を『疑惑取得』して本社を建てた朝日新聞は森友問題を報道する資格はない」という記事をシェアーします。ちょっと長いですが、お読み下さい。

              ■朝日新聞社が国有地を取得した当時のOBが、1973年の新年会で朝日新聞が海軍経理学校跡地の払い下げを受けたことに関して

              「国会の野郎どもも、朝日がこわいから何もいわんし、委員会でも問題にならん…」と、吠えていました。

              この妄言が、朝日新聞の国有地取得に関する闇をさらけ出していたのです。

              朝日新聞は、1973年1月23日、経済的市場価値のない土地と交換(一部売買)する形で、都心有数の一等地(中央区築地:海軍経理学校跡地約4400坪)
              を入手し現本社を建てていました。

              この国有地を入手した広岡知男朝日新聞社長は、1973年1月6日、朝日新聞出身の集まりの旧友会で
              「…毎日、読売も発送、トラックの関係で有楽町を逃げ出した。わが社でも、どこかいいところはないか、便利で広い土地はないか、と探していたら、
              国立がんセンターの近くで海上保安庁(水路部)跡の四千四百坪という、ちょうどいい土地が見つかりましたので、譲り受けました……」
              (『週刊新潮』【朝日新聞東京本社移転に国有地の「手に入れ方」】1973年1月25日号)と、挨拶していました。

              そして出席していた旧友が「今の古い建物は、…修繕の見積りをさせたところが、五、六十億かかるという、とんでもない話になった。五、六十億かけるんなら、
              それだけの金で土地を探したほうがいいというんで、担当委員が作られた。……街の不動産ブローカーから買うと高いので、
              大蔵省担当が国有財産課長にまともにぶつかり、脈がありそうだというんで、専務が大蔵大臣に直接当たってウンといわせ、(広岡)社長がアイサツに行った。

              国有地はたくさんあるが、いちばん条件のいいところが例の海軍経理学校跡、……いまの本社は、NHKのように身売りはしない。…身売りする必要なんかない。…
              広岡社長は、貸ビルにするなんてケチなことはいわんが、オレのカンでいえばそうゆうことだな…」(同『週刊新潮』)と、

              内情を明らかにして「国有地の払い下げは、よく国会でも問題になるが、…国会の野郎どもも、朝日がこわいから何もいわんし、委員会でも問題にならん。…
              公共的機関である朝日新聞が大手を振って正面からいったんだ。発行部数が六百六十七万部。読売、毎日をはるかに抜いている。

              その天下の大朝日が国有地の払下げを受けても文句はないだろう。朝日の信用だよ。国会議員だって、衆参合わせりゃ、朝日新聞出身が二十数名いて、
              朝日新聞出身議員団として親睦会をやっとるくらいでね。そういう力も少なくなかっただろうね…」
              (同『週刊新潮』)と、いま国会で問題になっている森友問題など吹っ飛ぶくらいの大疑惑です。

              朝日新聞の専務が、大蔵大臣に直談判して、都心(築地)の一等地約4400坪を強奪したようなものだったのです。
              その実態を、朝日新聞が大蔵省に交換を認めさせた東京都杉並区下高井五丁目のコンピューター閉鎖記録「土地台帳」と「登記簿」及び、
              戦前からの当該土地調査の実態を精査して、朝日新聞の犯罪性を明にします。

              朝日新聞が杉並区に所有していた土地(約九千坪)は、最寄り駅の井の頭線「浜田山駅」から約1km徒歩15分くらいかかり、現在、“杉並区立塚山公園”になっていました。
              現地に着くまでタクシーをつかまえようにもまったく見ることもなく、公共交通はコミュニティバスだけの不便なところでした。

              そもそも、朝日新聞が当該土地を入手したのは、法務局の土地台帳によると昭和18(1943)年7月27日に売買によって所有権移転が行われていました。
              その地目は「山林」で戦後ずーっとそのまま経過し、1966(昭和41)年5月13日に「雑種地」に変更されていますが「原因」は記されてません。
              そして不可解なことは、唐突に翌1967(昭和42)年3月3日に地目が「宅地」に変更されていたのです。

              なぜ不可解かと申しますと、その土地は戦前から文化財保護の観点上「宅地開発」が難しい場所だったからです。

              それは、朝日新聞が当該土地を取得する前に、その土地から東京市初の「縄文遺跡群」が発見されていたからなのです。

              杉並区立郷土博物館【復原住居と竪穴住居址見学のしおり】の『下高井戸塚山遺跡』によると《神田川流域の台地上に位置しています。
              1932(昭和7)年頃から調査がされていましたが、江坂輝彌氏によってはじめて紹介されました。その後、1937(昭和12)年、後藤守一氏(筆者注:明治大学名誉教授・考古学)
              により、東京市(当時)内において初めて縄文時代の竪穴住居址群が発見されました。……》と、記載されています。

              また杉並区教育委員会掲示によると、塚山遺跡は「区立塚山公園敷地一帯を中心とした旧石器時代(約三万年前)から縄文時代中期(約三千五百年前)にかけての
              集落跡です」となっており、戦時中にも関わらず、朝日新聞が当該土地を取得したのは戦前文化事業に熱心だったことと符合します。

              その縄文遺跡群は、文化財保護委員会(現文化庁)が1965(昭和40)年に刊行した『全国遺跡地図』に記載されており、国が埋蔵文化財として保護の対象にしていたのです。

              当然、1950(昭和25年)に施行された『文化財保護法』の「第96条土地の所有者又は占有者が出土品の出土等により貝づか、住居跡、古墳その他遺跡と認められるものを発見したときは、
              第九十二条第一項の規定による調査に当たって発見した場合を除き、その現状を変更することなく、遅滞なく、文部科学省令の定める事項を記載した書面をもって、
              その旨を文化庁長官に届け出なければならない。」の対象遺跡群だったのです。

              実際、現地を視察すると朝日新聞社が北側の斜面を大きく切り開いて造成した野球場がそのまま残してあり、東側角の現在「ふれあい広場」になっているところにも
              野球場が造成されていたとのことです。実際、その野球場は、埋蔵文化財保護対象遺跡群を破壊した「動かぬ証拠」になっています。

              杉並法務局に問合せても、文化財保護法の対象になっていた土地が、なぜ地目が「山林」から唐突に「宅地」への変更が許可されたのかは、
              1967(昭和42)年当時の「申請書」が保存されてないので解らないとのことでした。

              それを解く鍵は、前述した『週刊新潮』に記されている朝日新聞旧友の発言にある修理に「五、六十億かけるんなら、それだけの金で土地を探したほうがいいというんで、
              担当委員が作られた」とあり、国有地払い下げ当時の朝日新聞社内体制を精査すると、これまでの疑問を払拭できる実態が明らかになりました。

              それは、1967(昭和42)年当時、朝日新聞社内では社会主義者(組合員)たちによる社内革命の真っ只中の時期だったのです。

              1964(昭和39)年1月、朝日新聞の内紛で村山長挙社長が辞任すると、広岡知男は同3月に東京本社編集局長に復帰し、元朝日新聞常務取締役で全日空相談役となっていた
              朝日新聞社顧問の美土路昌一が同年11月に社長になると広岡が専務取締役となって、労組幹部時代の仲間の森恭三論説主幹らと組んで実権を握り、
              朝日新聞の経営から大株主の村山家を排除したのです。広岡は1967(昭和42)年7月、社長に就任。そして、緒方竹虎の主筆解任以来28年間空席となっていた
              主筆職を1971年5月から兼務し、朝日新聞社史上初の社長兼主筆となっていたのです。

              これらの事実から、地目を「宅地」に変更したのは広岡知男が実権を握っていた時期だったことが解ります。
              その時期の政界は、歴史に名を刻むことに前のめりになり、日中国交正常化を推進しようとしていた田中角栄が、1972年7月7日に総理大臣に就任していました。
              その田中政権を大番頭として支えたのは、朝日新聞出身国会議員団親睦会々長だった橋本登美三郎自民党幹事長だったのです。

              ところが朝日新聞は、大恩があった橋本が、1982年6月、ロッキード事件地裁判決で有罪が確定したら、南京攻略戦に朝日新聞キャップとして従軍していた橋本を貶める
              「南京大虐殺キャンペーン」を、1984年4月から開始していたのです。

              前述した「国会議員だって、衆参合わせりゃ、朝日新聞出身が二十数名いて、朝日新聞出身議員団として親睦会をやっとるくらいでね。そういう力も少なくなかっただろうね」
              の親睦会々長が、橋本登美三郎自民党幹事長であれば怖いも無しだったのです。まして日中国交正常化に前のめりになっていたのは、
              田中角栄以前に朝日新聞の独裁者広岡知男その人だったのであり、田中角栄と広岡知男が連携したことが、「歴史認識」に象徴される戦後我が国の不幸の始まりなのです。

              国有地払い下げを「専務が大蔵大臣に直接当たってウンといわせ」たと旧友が発言していましたが、そのときの大蔵大臣も田中派の植木庚子郎だった
              のであり、当時の大蔵大臣の立場では「ウン」以外の選択肢などなかったことは明らかでしょう。
              しかし、法治国家の体裁上、様々なアリバイ工作が行われていたことは、法務局に残されている土地台帳から類推できるのです。

              実際、朝日新聞は、都心有数の一等地だった国有財産と交換する土地が、経済市場価値がない山林(埋蔵縄文遺跡群)だとまずいので、
              大蔵省が官舎を建てれる土地と交換すると言い訳できるように地目を「宅地」に変更したのであろうが無理があります。

              また、大蔵省も少し調べれば、官舎など建てれないことは直ぐ判ったはずですので、ほとぼりが済むまでその土地を塩漬けにし、大蔵省が東京都杉並区に
              公園用地として所有権移転登記を行ったのは、登記簿によると1985(昭和60)年3月29日だったのです。その原因を「売買」としてますが、実態は「無償譲渡」だったのです。
              この時の大蔵大臣は、田中派の竹下登でした。これで朝日新聞の国有地取得疑惑問題が登記簿上終了したかのような体裁になっていますが、
              社会の「公器」としての「天下の大新聞社」には道義的・倫理的責任はそのまま残っているのです。

              日本国勢調査会の調べによると、朝日と大蔵省の取引は2筆の契約になっています。

              実際、海軍経理学校跡地の朝日新聞と大蔵省の取引の1筆は、中央区築地5丁目2番1号、面積3041坪(1万35屐砲蓮1973年2月12日に「売却」として
              朝日新聞に所有権が移転されてますが、所有権移転日から10年間「買い戻し特約」が設定登記され、買い戻し権者は大蔵省となっていました。

              売買代金は17億271万円(坪あたり56万円)。当時、築地駅周辺の土地売買がなく「八年前に8坪売ったら千三百万円だった…」(同『週刊新潮』)とあり、まとまった土地なら
              坪200万円は下らない価値の土地が超破格の坪56万円だったのです。また朝日新聞は購入代金を「延納」したため、大蔵省が「29億5890万円」の抵当権を設定していました。

              もう1筆は昭和48年1月23日(登記受付日昭和48年6月11日)、築地5丁目2番25号、面積1408坪(4645屐砲療效呂噺魎垢靴芯日新聞所有の通称「朝日浜田山
              グランド」(約9千坪・塚山遺跡群)との交換によって所有権が移転されていました。「等価交換」として評価を築地の坪単価56万円とすると、
              評価額は7億8800万円ということになります。朝日新聞はこの2筆つの取引で合計4448.4坪(1万4680屐砲療埒完貪地を取得したのです。

              当時の「朝日新聞浜田山グランド」の評価額は7億8800万円ということになりますが、事実上杉並区に「無償譲渡」したのであり、国民の財産に対する「瑕疵担保責任」が
              生じていたことになり、国会で問題にする案件なのです。

              2017年3月に発表された築地の当該土地の地価公示価格は、坪当たり611万6000円。また中央区平均坪単価公示価格2197万円で計算すると、
              海軍経理学校跡地は「977億円」になり、現在、国会で問題になっている森友学園国有地問題の「8億円」など比較にならない大問題なのです。

              ◆近現代史研究家・ジャーナリスト水間政憲【動画】【ニコニコチャンネル 水間条項国益最前線】

              posted by: samu | 歴史認識 | 10:03 | - | - | - | - |
              憲法改正国民投票の前に知っておくべき史実/ケントギルバート
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                Bilingual version of my article in Fuji Evening News which ran on March 9th.

                夕刊フジの原稿の和英バージョンです。
                ニッポンの新常識157 Common Knowledge Revisited 157

                “GHQが日本国憲法の草案を起草した”
                The Japanese Constitution Was Written by Americans”
                憲法改正国民投票の前に知っておくべき史実
                Facts You Should Know before the Plebiscite on Constitutional Amendment

                 日本国憲法は5月3日の憲法記念日で、施行71周年を迎える。国会では最近やっと、第9条を含む改憲論議が始まった。
                 May 3rd will mark the 71st anniversary of the promulgation of the Japanese Constitution. The National Diet has finally begun debate on amendment of Article 9.
                 相当数の国会議員を含む多くの日本国民が、子供の頃に習った「日本は憲法で戦争を放棄したから攻撃されない」という「平和憲法」の理論を信じている。だが、米国人にそんな話をしたら笑われる。ウイグル人とチベット人には、「現実を見ろ」と諭されるだろう。
                 Many Japanese people, including many Diet members, still believe the “peace constitution” logic which they learned as a child that “Japan will not be attacked because Japan gave up the right [and means] to wage war in the Japanese Constitution.” They could take some advice from Tibetans or Uighurs “to look at reality.”
                 もっとも、日本国憲法には「平和憲法」の側面が確かにある。当初は「米国のための平和憲法」であり、近年は「中華人民共和国(PRC)と朝鮮半島のための平和憲法」である。
                 There is some element of truth to the “peace constitution” argument in the sense that in the beginning it was a “constitution for American peace” and lately it is a “constitution for the peace of the People’s Republic of China (PRC) and the Korean Peninsula.”
                島根県・竹島が韓国に不法占拠され、北朝鮮の日本人拉致事件が長年解決せず、沖縄県・尖閣諸島周辺に中国公船がわが物顔で侵入する最大の原因は、日本に憲法第9条があるからだ。第9条が戦後の日本から「抑止力」と「紛争解決力」を奪った。
                 The biggest reason that Korea unlawfully occupied Shimane Prefecture’s Takeshima, that the incidents of Japanese being kidnapped by North Korea have not been solved after all these years, and that official Chinese vessels openly ply the waters around Okinawa Prefecture’s Senkaku Islands as if the islands were their own is that the Japanese Constitution contains Article 9 [which renounces the right to wage war or maintain armed forces of any kind]. Article 9 robbed postwar Japan of any “deterrence capability” and the option of “solving problems by resort to war.”
                今、世界中で9条改憲を誰よりも恐れているのは、近隣三国の上層部とその手先だろう。前者は第9条の恩恵を失うから、後者は任務失敗で粛清されかねないからである。
                 The leaders of the three nearby countries [PRC, North Korea, and South Korea] and their agents fear amendment of Article 9 more than anyone, the leaders because they will lose the advantage of Article 9, and the agents because they risk being purged for failing to carry out their mission
                現行憲法の制定経緯とプレスコードの話をしておこう。
                 Let’s look at the process by which the Constitution was adopted and the Press Code.
                改憲の国民投票に臨む前に、日本国民が全員知っておくべき史実だが、NHKを筆頭とする日本メディアの大半は、GHQ(連合国軍総司令部)が終戦直後に命じた「プレスコード」から脱しきれておらず、この話題を積極的に報じない。
                 This is something which the Japanese people all need to know before the national plebiscite on constitutional revision: the majority of the Japanese media including NHK has still not broken free from the Press Code [censorship regime] imposed by GHQ [U.S. occupation forces] immediately after the war, and as a result they do not proactively report on this issue.
                GHQが批判や報道自体を禁止した「プレスコード」全30項目のうち、日本メディアが3番目に禁じられたのは、「GHQが日本国憲法の草案を起草したこと」である。重大な問題だからこそ隠そうとした。次の改憲世論調査では、ぜひ何割の日本人がこの史実を知っているのか調査してほしい。
                 Among the 30 categories of issues about which the press was prohibited from reporting in the “Press Code,” the third item was “the fact that the Japanese Constitution was drafted by GHQ.” This fact was kept hidden because it is a serious problem. The next time an opinion poll regarding constitutional amendment is taken, I would definitely like to know the percentage of Japanese people who are aware of this historical fact.
                マッカーサー元帥が1946年2月3日、民生局長のコートニー・ホイットニー准将に憲法草案の作成を命じ、彼を含む25人の米国人が、命令から10日という短期間で「GHQ草案」を完成させた。日本政府は、この草案を飲まなければ天皇の安全は保障できないとGHQに恫喝(どうかつ)された。この憲法制定経緯は、「ハーグ陸戦条約」という国際法に違反していた。
                On February 3, 1946, General Macarthur ordered Major General Courtney Whitney, who headed [GHQ’s] Government Section, to draft a constitution [for Japan], Together with 24 other Americans he completed the “GHQ Draft” in just 10 days from when the order was given. The Japanese government was threatened that if they did not accept this draft, the safety of the emperor could not be guaranteed [which was probably actually true]. This process was illegal under international law as a direct violation of the “Hague Convention respecting the Laws and Customs of War on Land,”
                私は日本国憲法を全否定する気はない。GHQ草案を受け入れたおかげで、昭和天皇の安全と皇室制度が守られた。それだけで大変な意義があった。
                 I have no intention of arguing that the entire Japanese Constitution should be rejected. Because [the Japanese government] accepted the GHQ draft, Emperor Showa and the imperial system were preserved. This alone had great significance.
                また、翻訳調の不自然な日本語にさえ目をつぶれば、(第9条以外の)内容は意外と悪くない。ただし、すっかり様変わりした国際情勢にはもう対応できない。国会も、日本国民も、現実をよく見て考えてほしい。
                 In addition, if one can just overlook the unnatural expressions which result from the imperfect translation from English, the content of the constitution (except for Article 9) is not that bad. However, it is hopelessly inadequate to deal with the current completely changed international situation, I hope the Diet and the Japanese people will look at this reality and think carefully.

                posted by: samu | 歴史認識 | 11:44 | - | - | - | - |
                深川富岡八幡宮と東京大空襲/加瀬英明
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                  江戸時代から人気が高かった深川祭り

                  旧臘――昨年12月に、深川富岡八幡宮の女性宮司が神社のわきで、前任者だった弟によって、惨殺される不祥事が起った。

                  江戸時代を代表する祭礼といえば、将軍家の庇護の下にあった日枝神社の山王祭りと、神田祭りが天下祭りといわれて、京都祇園祭り、大阪天神祭りと並んで、日本の三大祭りと呼ばれた。

                  日本の祭りに君臨していた天下祭りは幕府が滅び、街路事情によって曳山(ひきやま)が姿を消したために、江戸時代から人気が高かった浅草三社祭りと、富岡八幡宮の深川祭りによって、先を越されるようになった。

                  富岡八幡宮の祭神は、第15代応神天皇のオオトモワケノミコト、天照大御神をはじめとする八柱だが、応神天皇は母后の胎内にあった時に即位された、唯一人の天皇である。

                  伊能忠敬の銅像の由来

                  富岡八幡宮の鳥居を潜ると、江戸末期に全国を歩いて測量して、日本地図をつくった伊能忠敬の銅像が建っている。忠敬は千葉県九十九里浜の農家に生まれ、独学で天文学や、測量、和算を学び、55歳で富岡八幡宮から、全国測量の第一歩を踏み出した。

                  今年は、忠敬の没後200周年に当たることから、全国各地で記念行事が行われる。

                  私事になるが、私は忠敬の次女の篠女が加瀬佐兵衛に嫁いだことから、玄孫(やしゃご)に当たる。富岡八幡宮で伊能忠敬顕彰会に招かれて、忠敬について講演したこともある。

                  それにしても神職だったという弟が、姉を日本刀で斬殺したのを、信じられなかった。日本刀は神社に祀られて、ご神体にもなるものだ。鍛冶場に注連縄が張られているのを、知らなかったのだろうか。

                  国宝のなかでもっとも件数が多いのは、日本刀である。武器として使われることが少なかったから、優れた作品が多く残っている。日本刀は武器であるよりも、武士が邪気を祓い、礼節を保つために携えていたのだろう。

                  昨今の神職の教育に、問題があるのだろう。

                  だが、富岡八幡宮の神職が不祥事を起したといって、神社に傷がつくものではない。キリスト教会は大虐殺や、侵略戦争にかかわってきた。今年、フランシスコ現法王がペルーを訪れた時に、多くの司祭が少年に性的虐待を加えてきたことを謝罪したが、キリスト教の神に傷がつくわけではあるまい。

                  富岡八幡宮といえば、私にとって忘れられないことがある。

                  『週刊新潮』に50週にわたって連載

                  私は37歳の時に、『週刊新潮』に昭和20年元日から、マッカーサー元帥が昭和26年に解任されて離任するまで、昭和天皇を中心として、宮中、皇族、政府、軍中枢の動静を、当時の天皇の側近者をはじめ百数十人に、長時間インタビューを行って、50週にわたって連載したことがあった。

                  3月10日に東京大空襲が行われ、その直後の累計で8万3000人以上の市民が死亡すると、前年10月を最後に空襲を恐れて、皇居の外へ出られることがなかった天皇が、軍の強い反対を押し切って、被災地を視察されたことがあった。

                  軍は天皇が被爆地を見られて、抗戦の決意が揺らぐことを心配して反対したが、御巡幸は軍の決定事項ではないので、承知するほかなかった。

                  宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせを行い、18日の日曜日の午前9時から10時までの1時間が決定されたが、アメリカ軍は日曜日は休んでいるだろうという判断で選ばれ、午前9時から10時までは、それまでの統計で空襲がもっとも少なかった。

                  御料車を黒く塗りかえることも検討されたが、時間がなかったので取りやめになった。いつもであれば、沿道に1メートル置きに警官が並ぶのに、天皇であることが分からないように、警衛をできるだけ少なくすることにして、ところどころにしか立たなかった。交通の規制も行わず、前後60メートルだけが交通制限され、対向車も自由だった。

                  昭和天皇の御巡幸

                  御料車はボンネットに立つ天皇旗を外して、近衛将校が乗ったオートバイが、両脇に2台ずつ従って、蓮沼侍従武官長、藤田侍従長、松平宮相などの供奉員を乗せた車が3台続いて、時速36キロで疾駆した。

                  永代橋を渡って深川に入ると、見渡すかぎりの焼け跡だった。ところどころで、市民がトタン板でバラックを造り、瓦礫の整理をしていた。

                  鹵簿(ろぼ)は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で、停まった。

                  陸軍様式軍装を召された天皇が降りられると、待っていた大達内相の先導で、石畳を歩かれて、境内へ向かわれた。

                  拝殿は延焼を免れていた。陛下は軍帽を脱がれると、拝殿に向かってお辞儀をされた。拝殿の前に粗末な机が、1つ置かれていた。

                  天皇が机へ向かって立たれると、一面の焼け跡が一望に見渡せた。天皇の背後に、供奉員や、坂警視総監、都長官の西尾陸軍大将など、約20人が2列になって並んだ。

                  国民服を着た大達内相が、地図を鉛筆で指して、被害状況を御説明した。

                  陛下は大達の言葉が切れるたびに強く頷かれ、「あっ、そう」「それは、たいへんだったなあ」と、仰言った。

                  警官が神社を囲んで、一般市民は境内に入れなかった。しかし、被災民のなかには、巡査から陛下が御幸されていると聞いて、何人かが地面に崩れ落ちて、有難さに号泣した。

                  大達が説明を終えると、天皇は焼け野原にじっと見入って、「こんなに焼けたか‥‥」と、絶句された。天皇は大達に促されるようにして、御料車へ戻られた。

                  鹵簿は予定通りに、10時に皇居正門を潜った。幸いこのあいだ、空襲はなかった。

                  その後、陛下は敗戦まで皇居の外へ出られなかった。私は『週刊新潮』の連載にそう書かなかったが、昭和天皇はこの時に終戦を決意されたと、確信した。

                  富岡八幡宮の例大祭はなぜか8月15日

                  そして、江戸時代から富岡八幡宮の例大祭が、8月15日だったことを知っていたが、私はオカルトを信じなかったから、戦争が8月15日に終わったのは、偶然でしかないと思った。それとも、御神威によるものだったのだろうか。

                  軍は根こそぎ動員を進めていたが、国民全員を戦闘員とみなしていた。4月に、阿南惟幾陸軍大臣が布告した本土決戦のための「決戦訓」は、次のようにうたっていた。

                  「皇軍将兵は皇土を死守すべし。皇土は天皇在(ま)しまし、神霊鎮まり給ふの地なり。皇国将兵は一億戦友の先駆たるべし。一億同胞は総(すべ)て是(これ)皇国護持の戦友なり」

                  大本営陸軍部が同じ月に発した「国土決戦教令」は、必要な場合、軍が国民を殺すのに躊躇(ちゅうちょ)してはならないと、命じていた。

                  「敵ハ住民、婦女、老幼ヲ先頭ニ立テテ前進シ、我ガ戦意ノ消磨(しょうま)ヲ計ルコトアルベシ。斯(か)カル場合我ガ同胞ハ己(オノ)ガ生命ノ長キヲ希(こひねが)ハンヨリハ、皇国ノ戦捷(せんしょう)ヲ祈念シアルヲ信ジ、敵兵撃滅ニ躊躇スベカラズ」

                  いま、立憲民主党をはじめとする護憲勢力が、憲法解釈による「専守防衛」を金科玉条のように、頑なに守れと主張している。

                  「専守防衛」は、敵軍がわが領土を侵さないかぎり、迎撃することが許されないから、本土決戦を戦うことを強いている。いったい、枝野幸男氏たちは本土決戦が国民を道連れにして、いかに悲惨なものとなるか、考えたことがあるだろうか。

                  陸軍は本土決戦へ向けて、長野県松代の山を手掘りで巨大な洞窟を刳(く)り抜いて、大本営を移転することを、計画していた。私はこの跡を訪れたことがあるが、天皇皇后のために、半地下式の行(あん)在所(ざいしょ)も造られていた。

                  私は「専守防衛」を唱える論者に、松代大本営跡を見学することを勧めたい。

                  『週刊新潮』の連載は新潮社から単行本として出版されたが、3年前に『昭和天皇の戦い』(勉誠出版)として、復刻された。

                  posted by: samu | 歴史認識 | 21:51 | - | - | - | - |
                  眞子内親王殿下と秋篠宮家の蹉跌/加瀬英明
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                    憲法第24条に従って

                    宮内庁が2月6日に、秋篠宮家の長女の眞子内親王殿下と、小室圭氏の婚儀を2020年に延期すると唐突に発表して、国民を驚かせた時に、私は「やはり、そうなったのか」と、思った。

                    眞子内親王殿下と小室氏の一般なら結納に当たる「納采(のうさい)の儀」が、1ヶ月にみたない翌月の4日に、予定されていた。まさに、悲喜劇だった。

                    私は眞子内親王殿下が、小室氏と2人で昨年9月3日に記者会見を行われた時に、日本と皇室の将来が危ふいと思って、暗然として、言葉を失った。

                    眞子内親王殿下が「婚約が内定いたしましたことを、誠にうれしく思っております。(略)プロポーズは、その場でお受けしました」と述べられ、小室氏が悪びれることなく、「2013年12月に、私から宮さまに『将来結婚しましよう』というように申し上げました」と補足した時に、私は一瞬、テレビの映像を信じることができなかった。

                    眞子内親王殿下と小室氏は、秋篠宮殿下にも、宮内庁にもはかることなく、あきらかに2人だけのあいだで、結婚を決めたのだった。

                    ひと昔、4、50年前だったとしたら、2人が駆け落ちしたのだった。

                    私はあってはならないことが、起ったと思って、強い衝撃を受けた。

                    現行憲法の第24条「【家族生活における個人の尊厳と両性の平等】」は、第1項で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」(傍点筆者)と、規定している。

                    内親王殿下と小室氏の若い2人は、憲法第24条に従って、行動したのだった。

                    これは、アメリカ占領軍が、家族制度が日本の危険な国家主義の基礎となっていると信じて、日本の伝統社会をつくり変えようとして、家族制度を破壊するために、定めたものだった。

                    私は昨年9月に、2人の記者会見のなかで、小室氏が「(私の)好きな言葉は、”Let it be”です」と述べたのにも、唖然とした。

                    英語で「レット・イット・ビー」というと、「なるように、なれ」という、自暴自棄な態度を意味している。

                    もっとも、小室氏の英語の能力が低く、英語がよく分からないことを、祈りたい。

                    それに、メディアの報道によれば、小室氏は法律事務所の下働きをしており、年収が250万円というが、それに近いのだろう。真剣になって、皇女に求婚したととうてい思えない。

                    もっとも、今日、国民のあいだでも、家族の絆が弱まって、「家」の観念が失われるようになっている。

                    やはり、天皇家も時代の高波によって、侵蝕されるようになっているのだろうか。

                    家族の解体

                    皇室といえば、『君が代』を連想しよう。

                    和歌君が代は、おそらく世界のなかで、今日まで歌い継がれている、もっとも古い祝い歌であろう。

                    『君が代』の歌詞は、1000首以上を収録している、『古今和歌集』(西暦905年)に載っているが、もとの歌は「わが君は千代に八千代に‥‥」と始まっており、庶民を含めて、婚礼をはじめとする祝賀の宴で、祝われる者の長寿を願って、朗唱されてきた。

                    明治に入って、西洋に倣って、国歌が制定されると、「わが君」を「君が代」に置き換えた。

                    同じ寿歌(ほぎうた)が1100年以上にもわたって、唄い続けられている国は、世界のなかで日本しかない。古い伝統を大事にしてきた国柄を、示している。

                    おそらく人類の祝い事のなかで、世界のどこにおいても、結婚がもっとも寿(ことほ)がれるものだろう。

                    結婚するから、家――あるいは家族(ファミリー)が絶えることなく、人類が存続でき、未来を確かなものにすることができることを、理屈抜きで、知っているからだろう。

                    ところが、今日では結婚は、男女2人の一過性の快楽を求めるために行われる、ごく軽い結びつきに、変わってしまっている。

                    現行憲法の規定によれば、親や兄弟や、一族は、2人の結婚とかかわりがなく、2人の結婚に干渉してはならないことと、されている。

                    2人が家を継いでゆくために、結ばれることが、なくなってしまった。

                    だが、家族(ファミリー)が解体してしまったら、国も崩壊してしまう。

                    もっとも、家族の解体は、日本だけの現象ではない。

                    同じ立憲君主制度をとっているイギリスの王室も、同じような状況に陥っている。

                    昨年11月に、イギリスのヘンリー王子(イギリスでは、ハリー王子の愛称で呼ばれる)と、美しいアメリカ女優のメーガン・マークルさんの婚約が発表され、日本のマスコミも騒がした。

                    マークルさんはカトリック(旧)教徒だが、2人の婚約はイギリスで王族がカトリック教徒と結婚することを禁じた王位継承法が、5年前の2013年に改正されたことによって、可能になった。イギリス国教会は中世にカトリック教会から独立して以来、激しく敵対していた。

                    マークルさんには、1回、離婚経験があり、前夫のハリウッド映画プロデューサーが健在であることも、妨げにならなかった。

                    また、マークルさんの母親がアフリカ系の黒人であることも、ハリー王子との婚約の障害にならなかった。だが、5、60年前のイギリスであったら、考えられなかったことだった。

                    チャーチル元首相をはじめ、国民のほぼ全員が、白人の有色人種に対する絶対的な優位を確信して、有色人種を動物のように見て、植民地支配を行っていたことを、正当化していた。

                    日本が先の大戦によって、まずアジアを解放し、その高い波がアフリカ大陸まで洗ったことによって、今日の人種平等が常識となった世界が、もたらされたのだった。

                    ハリー王子とマークルさんの2人の幸せを、祈りたい。

                    王家の尊厳

                    私はイギリス発祥の『ブリタニカ(大英)百科事典』の最初の外国語版となった、日本語版の初代編集長をつとめていたことから、エリザベス女王の妹君のマーガレット王女が来日された時に、大使館主催の歓迎パーティで、お話する役目を割り振られたことがあった。

                    だが、マークル妃と会っても、同じように敬意を払えないと思う。

                    エリザベス女王がフィリップ殿下と結婚された時には、王族が結婚できるファミリーは、200あまりしかなかったろうが、この40年ほどのあいだに、社会の大衆化が進んだことによって、社会規範が大きく変わった。

                    ハリー王子の父君のチャーチル皇太子が、ダイアナ妃と結婚したのは、1981年だったが、ダイアナ妃は下級の貴族の出身だったから、国民を驚かせ、イギリス社会を“シンデレラ・ストーリー”として、沸かせた。

                    開かれた王室は、大衆の手の届くところに降りてくるから、大衆化して、王室らしくなくなる。

                    王家という家を基準とせずに、自分本位の自由恋愛によって、配偶者を選ぶことになると、王家を支える尊厳が失われてしまう。

                    その家にふさわしい配偶者ではなく、自分本位に自由に相手を選ぶことによって、結婚と家が切り離された。

                    それに、ついこのあいだまで、世界はどこへ行っても、貧しかった。

                    そのために、家族や地域社会の人々が、生活を支え合った。

                    ところが、物質的な豊かさが、急速にもたらされたことによって、人類にとって当然のことだった、家族をはじめとする絆を弱めて、破壊してしまった。

                    子育て支援や、生活保護などの福祉制度も、このような傾向を助長している。

                    世界のどこへ行っても、結婚は今日のように一時的な快楽ではなく、家や、社会に対する務めであって、神聖な行為だった。

                    結婚は責任をともない、自制と節度を必要とした。もちろん、人類を存続させるためという、暗黙の了解があったにちがいない。

                    皇室も、社会の一部だから、皇室が社会のなかで、孤立しているわけではない。

                    皇室も、王室も、その時々の社会のありかたを映す、鏡である。

                    どの国も、皇太子をその時の男性の理想像に合わせて、教育する。

                    昭和天皇はご幼少のころから、明治時代の日本の男性の理想像に合わせた教育を、受けられた。そのために、ご生涯を通じて、国民の憧れの対象となり、国民が熱い崇敬の念を捧げた。

                    今上陛下も、東宮殿下も、日本国民がその時々にいだいていた、男性の理想像を体現されていらっしゃる。

                    眞子内親王殿下も、今日の日本国民の姿を映す鏡となって、いられるのだ。

                    すると、いったい、私たちに眞子内親王殿下を批判する資格が、あるのだろうか。

                    posted by: samu | 歴史認識 | 12:41 | - | - | - | - |
                    世界は日本の八紘一宇に向かう/西村眞吾
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                      「伝統と革新」誌から次号のテーマである「神道と現代日本・・・宗教・闘争・平和」に関する原稿用紙二十枚の執筆依頼を受けたので、
                      二月十六日と十七日の二日間で書いた。
                      しかし、私には、宗教に関する学識は無く、信仰心が篤いことも深いこともない。
                      私は、政治の世界に生きる者である。
                      従って、信仰の立場からではなく、
                      この五百年間、地球をほとんど征服して植民地とした欧米人のキリスト教とは何だったのかを書いた。
                      現在の歴史段階は、
                      欧米キリスト教世界の数百年にわたる世界支配が終焉したあとの
                      諸国民の幸せをもたらす秩序を如何にして獲得するのか模索する段階にあるからだ。
                      思えば日本は、二十世紀に、
                      たった一国でこの欧米の世界植民地支配体制を打破しようと孤軍奮闘した。
                      そして、我が国は敗れたが、欧米の人種差別を抱えた世界支配は終焉した。
                      その戦闘を開始する際に、
                      我が国は帝国政府声明を発し、アジア解放の志を
                      「東亜を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽しみを分かたんと祈念する」
                      と世界に宣言した。
                      その「東亜の明朗本然の姿」とは、
                      欧米キリスト教世界に支配される以前の姿である。
                      ここで明らかなことは、
                      大東亜戦争開始に際しての我が国は、直感で、
                      「東亜共栄の楽しみ」は古に戻ること、
                      即ち「復古」によって適えられると確信したのだ。
                      そうであれば、私の直感も述べたいと思う。
                      では、その「復古」とは、何処までの「復古」なのか。
                      その「復古」が必要なのは、
                      何もアジアだけではなかろう。
                      ヨーロッパも、
                      キリスト教に改宗する前の神々の世界に「復古」するべきだ。
                      振り返れば、ヨーロッパがキリスト教の世界となるのは、
                      そう遠い昔ではない。
                      キリスト教になってからヨーロッパは
                      異端審問によって異端を火刑で焼き殺す数百年の暗黒の中世に入り、
                      ルネッサンスの「文芸復興期」を経て近代に入る。
                      しかし、その時ヨーロッパは、
                      ギリシャ・ローマの文芸だけを復活させて神々の復活は封印された。
                      ヨーロッパの今度のルネッサンスは、キリスト教改宗以前の
                      ギリシャ・ローマ、ガリア、ケルト、ゲルマンの神々の復活だ。
                      また、付言するが、
                      私は、キリスト教を敵視しているのではない。
                      敵視どころか、私は幼い頃に、
                      母に連れられて兄と共に、大阪の南田辺のカトリック教会に通った。
                      その童心の時の母と共にいた情況を思えば、
                      無限の安らぎを感じる。
                      母は、明治に生まれ、両親から聞いた明治天皇の質素なお暮らしぶりを語るとき、
                      涙を流して語った日本人だった。
                      母は、庶民に至るまで初めて西洋に接した明治の御代に生まれ、
                      最も純粋に西洋の精神を受け入れた世代の一人だった。
                      しかし、神道の家の娘で、神社にもお寺にも参るあたりまえの日本人であった。
                      母は、よく小鳥とも話をしたといわれるアッシジの聖フランシスコのことを語ってくれた。
                      しかし、母から、ヨーロッパの
                      異端審問と異端者を火刑にしてその灰も遺さないヨーロッパのキリスト教のこと、
                      また有色人種の異教徒を人間とみなさないヨーロッパのキリスト教のことは聞いたことはない。
                      私のキリスト教への思いは、この母と共にある。
                      それ故私が、次の論考で語っているのは、
                      この母と共にあるキリスト教ではなく、
                      ローマからヨーロッパの国教となって
                      ヨーロッパの世界制覇の精神的原動力となった
                      「キリスト教という巨大で恐ろしい政治的力」
                      について語っているのだ。
                      以下、お読み頂きたい。

                      ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

                      宗教と戦争(闘争)と平和は、当然のことながら、
                      人間と無関係にあるのではなく人間の存在のなかにある。
                      従って、それらは、人間の群である国家と民族の運命に深く関わってきた。
                      そして、人間が、善と悪と美と醜の両極を一身に内蔵して生きる存在である以上、
                      国家と民族は、宗教の違いによって殺し合い、
                      同じ宗教でも教義の違いによって殺し合う存在である。
                      それどころか、一人一人の人間も、
                      同じ教会の同じ信者同士でも利害対立によって争い、時に殺し合う。
                      つまり、ある宗教を信じようが信じまいが、
                      その宗教の目指すところが如何に美しく崇高であろうが、
                      国家と民族と人間は、生存のため、利害の為に、闘争する。
                      宗教は必ずしも平和をもたらさず、
                      反対に戦争(闘争)の原因となり、
                      宗教と無関係な利害の一致が和解の原因となる。
                      このことが明瞭に現れているのが、過去ではなく現在の世界情勢である。
                      とりわけ、共通の先祖をもつ三つの宗教である
                      ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖地エルサレムをもつ中東の情勢が、
                      平和と反対のテロと紛争の坩堝となっている。
                      この現在までの世界を動かしてきたのは、
                      二千年ほど前に中東で生まれ、
                      ヨーロッパ大陸に広がったキリスト教を中心とした歴史、
                      つまり、一神教の世界である。

                      ローマ帝国が、西暦三八一年にキリスト教を国教としたことによって、
                      キリスト教の布教は拡大を続けて、全ヨーロッパがキリスト教世界となる。
                      このことは、もともと古来から多神教の世界であったヨーロッパにおける
                      ギリシャ・ローマそしてゲルマンやケルトやガリアの
                      神々の世界の記憶が切断されたということだ。
                      そして、このキリスト教化したヨーロッパは、
                      暗黒と言われる中世を経て近世を開き、以来、二十世紀までの五百年ほどの間に
                      地球上のほぼ全てを植民地・入植地として支配するに至った。
                      この近世五百年の間に、
                      ヨーロッパに支配されたヨーロッパ以外の世界は、
                      キリスト教の世界ではなくイスラム教やヒンズー教や仏教や多神教の世界であった。
                      つまり、
                      近世五百年とはキリスト教徒が異教徒を支配し、キリスト教に改宗させた時代である。
                      しかし、その世界史の大流のなかで、
                      彼らから観て「ファーイースト・極東」に位置する我が日本は、
                      「ヨーロッパキリスト教世界」(以下、「ヨーロッパ世界」、という)による地球支配から唯一免れて二十世紀を迎えた。
                      従って、我が国は、「ヨーロッパ世界」がもともと持っていた
                      多神教の神々の世界を現在も保持している。
                      この日本に接したヨーロッパ人の一人、
                      社会人類学者であるフランス人クロード・レヴィ−=ストロースは、
                      二十世紀の初期に次の通り、日本を述べている。

                      「われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている。
                      日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、
                      そこでは誰もが歴史とも神話とも密接な絆をむすんでいられるという点にあるのだ。」

                      そして、日本は、二十世紀において、
                      アジアにおけるこのヨーロッパ諸国の植民地支配を打倒して、
                      地球における「ヨーロッパ世界」の優越、
                      つまり人種差別、白人優越の体制を終焉させ、
                      現在に至る人種平等・諸国民平等の世紀の幕開けを告げた。
                      よって、本稿においては、
                      この現在の歴史段階に立って、日本人の観点から、
                      五百年間にわたる「ヨーロッパ世界」による
                      アジア・アフリカの「異教徒支配」とは何だったのか。
                      さらに、「ヨーロッパ世界」と「日本」は何が違うのかを論じることにする。
                      従って、既にお分かりのように、
                      私はキリスト教をはじめとする諸宗教の崇高かつ深遠な信仰について書くのではない。
                      そもそも書く能力も資格もない。
                      そうではなく、
                      如何にして世界史が動いてきたのかを書く。
                      つまり、我々の先祖が、十六世紀に初めて遭遇し、二十世紀までアジア・アフリカを支配した「ヨーロッパ世界」と国家とは何であったのかを書くことになる。
                      そして、これを書くなかで、
                      この「ヨーロッパ世界」の世界支配が終焉した後の
                      「日本」の世界史における役割とは何かを考えたい。
                      それは、つまり、
                      神々は、天は、何故、日本を、太古から今まで日本たらしめたのか、
                      日本は何故、日本なのか、ということになる。
                      明らかなことは、
                      日本には、天皇と神社(神道)がある、
                      だから、日本は日本なのだ、ということだ。

                      さて、二十世紀初頭の日露戦争が世界史を変えた。
                      一九〇五年、明治三十八年のことだ。
                      その我が国が変えた世界史とは、
                      「ヨーロッパ世界」、
                      つまり、ヨーロッパ帝国主義諸国のアジア・アフリカ侵略の世界史である。
                      我が国は、日露戦争でロシア帝国に勝利することによって、
                      「ヨーロッパ世界」に侵略され植民地となったアジア・アフリカの諸民族を覚醒させ、
                      それから三十六年後の昭和十六年(一九四一年)に勃発した大東亜戦争の緒戦において、帝国政府声明によって明確に
                      「東亜を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽しみを分かたん」
                      ためのアジア解放を世界に宣言して、
                      アジアを支配するヨーロッパ帝国主義諸国である
                      イギリス、フランス、オランダそしてアメリカの植民地支配を打倒した。

                      そこで、日露戦争までの、「ヨーロッパ世界」のアジア侵略史を概観する。
                      まず、一四九二年、
                      スペインからクリストファー・コロンブスが大西洋を西に向かい
                      ハバマ諸島とキューバに到着する。
                      次に、一四九八年、
                      ポルトガルからバスコ・ダ・ガマがアフリカ南端の喜望峰を廻って東に向かい南インドのカリカットに到着する。こ
                      こから、「新世界」の「ヨーロッパ世界」による分割が開始される。
                      その象徴的条約が、
                      ローマ教皇アレキサンデル六世の承認に基づき、
                      一四九四年にスペインとポルトガルとの間で結ばれたトリデシリャス条約である。
                      この条約は、地球を大西洋上で二分割して、
                      西をスペインが、東をポルトガルが領有するとするものである。
                      つまり、最初に「インディアス」を「発見」したスペインが
                      トリデシリャス条約によって西を取り、
                      スペインに先を越されて東に向かわざるを得なかったポルトガルが
                      東から「インディアス」に向かってインドに到着したというわけだ。
                      この両者の目的は共に「インディアス」から黄金と香料を得ることである。
                      西に向かったスペインは原住民の虐殺によって目的を達し、
                      東に向かったポルトガルは文明世界であったインドとの交易によって目的を達した。
                      次は、ハバマ諸島とキューバに上陸した時のコロンブスの手記である。
                      「彼ら(原住民)は、武器を持たないばかりか、それを知らない。
                      ・・・彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。五十人の男達と共に、彼ら全てを征服し、思うままに何でもさせることができた。
                      ・・・彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になるだろう。」

                      そして、はやくもこの約五十年後には、
                      東西に別れて「新世界」を領有しようとしたスペインとポルトガルは、
                      共に地球の反対側の我が国に到達する。
                      ポルトガル人の種子島漂着と鉄砲伝来は一五四三年、
                      スペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエルの薩摩半島南端への上陸は
                      一五四九年である。
                      ここにおいて我が国は初めて「ヨーロッパ世界」に接した。

                      それから僅か三十三年後の一五八二年(天正十年)、
                      我が国からキリシタン大名の子弟である四人の少年と随行員がスペインに派遣された。
                      天正遣欧少年使節である。
                      彼らは、ポルトガル王を兼ねていたスペイン王フェリペ二世の歓待を受け、
                      次にスペインから地中海をイタリアに渡り、
                      ローマ教皇グレゴリウス五世と会見してローマ市民権を与えられた。
                      しかし、八年後の一五九〇年(天正十八年)に彼らが帰国したとき、
                      既に天下人となった豊臣秀吉は、
                      バテレン追放令を発しており(一五八七年)、
                      四人の少年のうち、
                      伊東マンショは司祭となるが、
                      原マルティノは追放されてマカオで客死し、
                      中浦ジュリアンは「穴づり」にされて殉教し、
                      千々石ミゲルは棄教する。
                      この天正遣欧少年使節を発案したイエズス会宣教師の目的は、
                      少年達にキリスト教文明の偉大さを実感させることにあった。

                      このようにして十六世紀のたった百年の間に、
                      地球のほぼ全てにスペインとポルトガルの足跡が刻まれた。
                      そして、十七世紀に入ると、スペインとポルトガルに続いて
                      イギリス、フランス、オランダ、ロシア、アメリカそしてドイツなどの列強が
                      植民地を求めてアジア進出を開始した。

                      イギリスは、十九世紀初めまでにはインドの主要地域を支配下に入れ、
                      一八一九年にはシンガポールを占領し、
                      続いてビルマとマレーを植民地とした。
                      さらに、清国に対してはアヘン戦争を仕掛けて五港を開港させ、
                      一八四二年、香港を割譲させた。
                      その間、南半球のオーストラリアとニュージーランドを占有した。
                      オランダは、一六一九年にインドネシアのジャワ島に進出し、
                      十九世紀前半のジャワ戦争で東インド諸島を手に入れた。
                      フランスは、一八六二年、ベトナム南部を占領し、
                      次にカンボジアそしてベトナムの中部と北部とラオスを支配下に置き、
                      一九〇〇年に広州を清国から租借した。
                      ドイツは、一八八四年、東ニューギニアを領有し、次にマーシャル群島を手に入れた。
                      最も遅れてアジアの植民地争奪戦に参加するアメリカは、
                      一八四八年、メキシコから奪ったカリフォルニアで金鉱が発見されるや、
                      西部の開拓を急速に進め、
                      陸上のフロンティアがなくなると太平洋に進出して、
                      一八九七年にハワイを併合し、
                      一八九八年にスペインからフィリピンとグアムを奪い、
                      一九〇〇年には、ウェーキとサモアを併合した。
                      このアメリカの西部の開拓、というより、インディアンの居住地の略奪も
                      太平洋への進出も、全て「神から白人に与えられた使命」に基づくものであった。
                      そして、ロシアであるが、
                      ユーラシア大陸の北の陸路を東へと拡大し、
                      一八五八年のアイグン条約と一八六〇年の北京条約で、
                      遂にウスリー以東の沿海州を獲得して、
                      西のバルト海から東の日本海にまたがるユーラシア大陸北部を支配する帝国となった。
                      また、既に十九世紀初頭には千島に進出し、
                      一八五三年には樺太に上陸して日本人を追放して占拠し、
                      一八六一年には対馬の芋崎に軍艦ポサドニック号を侵入させて半年間そこを占拠した。
                      その時のロシア軍兵士の銃撃によって死亡した二人の対馬藩士は、
                      今、靖國神社に祀られている。
                      以上が、「ヨーロッパ世界」のアジア進出の概要であるが、
                      彼らは、有色人種や異教徒に対する強烈な人種的偏見をもってそれを為したということは記憶するべきである。
                      まさに明治維新以来の我が国は、
                      この「ヨーロッパ世界」の強烈な人種的偏見と闘ったからだ。
                      では、この「ヨーロッパ世界」の人種的偏見とは、どの程度であろうか。
                      それは想像を絶するものである。
                      つまり、彼らは、異教徒や有色人種を、人間と見ないことができるのだ。
                      狐やウサギや鴨を、猟銃で狙撃して、
                      その獲得数を競うレジャーとしての狩りが行われるが、
                      彼らは、まさに人間を獲物として射殺してその数を競うレジャーを楽しめたのである。
                      「ヨーロッパ世界」からの入植者は、
                      オーストラリアの原住民であるアボリジニや
                      アメリカ大陸のインディアンをハンティングを楽しむように射殺しえたのである。

                      コロンブスがアメリカ大陸に到着した時、
                      南米大陸には最大推計一億一千万人、最小推計四千万人のインディオが住んでいた。
                      しかし、八十年後のインカ帝国滅亡の時には、一千万人に激減していた。
                      同じくコロンブスが到着したとき、北米大陸にも大勢のインディアンがいた。
                      しかし、十九世紀の終わりには三十五万人に激減していた。
                      イギリスは、一七八八年、
                      オーストラリアに一千四百七十三人の流刑者を送り込み、
                      その後も、ならず者や無法者を入植者として送り続けた。
                      彼らは原住民のアボリジニをリクレーションとしての狩りの獲物として射殺した。
                      オーストラリア政府が、
                      アボリジニを国民(人間)とみなして人口統計に入れたのは
                      一九七六年(昭和五十一年)の憲法改正以降である。

                      我が国が、十六世紀の半ばに遭遇し、
                      三百年後の十九世紀の半ばに再度遭遇した
                      「ヨーロッパ世界」とは斯くの如き世界であった。
                      それは、植民地化と人種差別の巨大な脅威、怪物であった。
                      そして、この「ヨーロッパ世界」の危険性を、
                      アジアにおいて、初めて、かつ唯一人見抜いた指導者は豊臣秀吉である。
                      その時、彼が見抜かなかったら、
                      日本は日本でなくなっていたかも知れない。
                      彼は、九州において、キリシタン大名の領地の状況を見た。
                      そして、危険性を見抜いたのだ。それを見抜かせたものは、
                      神話にもとづいて天皇の知らす国である日本の歴史と伝統と無関係ではない。

                      キリスト教の宣教師にとって、
                      世界がローマ教皇アレキサンデル六世の承認したトリデシリャス条約の通り、
                      スペインとポルトガルに支配されてキリスト教化することこそ、
                      神の御心にそうものであった。
                      従って、彼ら宣教師のアジアでの布教活動は、
                      スペインとポルトガルの植民地化の為の偵察行動でもあった。
                      また、布教にかかる資金を調達しなければならない。
                      それには、現地で奴隷を仕入れて欧州で売ることである。
                      コロンブスのハバマ諸島上陸直後の手記に、原住民を見て「彼らはすばらしい奴隷になるだろう」と書かれていることから明らかなように、
                      彼らにとって有色人種の異教徒は、金になる牛や馬と同じ家畜に見えたのである。
                      従って、宣教師達は奴隷商人を連れてきていた。
                      そして、キリシタン大名から領地を寄進され自由にその領域を歩けるようになった彼らがまずすることは奴隷の調達と神社仏閣の破壊だった。
                      特に日本人の少女は従順で頭が良いということで
                      欧州の奴隷市場で高値で売れたという。
                      彼らは、その少女達を裸にしてロープで数珠つなぎにして牛や馬のように船倉に押し込んで欧州に送り出した。その数、数万から五十万ともいわれている。
                      では、キリシタン大名は、領地の寄進の見返りに宣教師達から何を得ていたのか。
                      それは、鉄砲を撃つための火薬である。火薬は日本に無かった。
                      時は戦国である。キリシタン大名も、信仰の世界の綺麗事で生きてはいないのだ。
                      このバテレンの行状を秀吉が見た。
                      そして、危険性を見抜いた。
                      また、あの四人の初めて欧州に行った日本人である天正遣欧少年使節の少年達も、
                      欧州の奴隷市場で裸にされて売られている日本の少女達を見たのだ。
                      千々石ミゲルの棄教の原因は、ここにあるのではないかと推測している。
                      イエズス会の宣教師が、キリシタン大名の子弟達に壮大なキリスト文明の偉容を見せようと企画した大旅行において、
                      少年達は「ヨーロッパ世界」の壮大な偽善を見たのである。

                      我が国は、十六世紀の末に、
                      秀吉が「ヨーロッパ世界」のアジア植民地化と人種差別の危険性を察知して
                      彼らとの関係を切断したが、
                      三百年後の十九世紀半ばに国を開いて明治維新を達成し、
                      福澤諭吉の主張するように、
                      国家の生き残りのために彼らの文明を学び、その文明の力を以て彼らと戦い、
                      遂に二十世紀半ばにアジアを「ヨーロッパ世界」から解放した。
                      この歴史を踏まえた上で、
                      明治維新以降の我が国の歩みを、ヨーロッパ帝国主義諸国と同じ侵略と植民地支配をしたと非難する思想戦に対抗しなければならない。
                      つまり、朝鮮は、我が国の台湾領有と朝鮮の併合を植民地支配と非難する。
                      しかし、我が国の台湾と朝鮮の統治は、
                      「ヨーロッパ世界」の植民地統治とは天地の違いがある。
                      彼らの植民地統治は、異教徒や有色人種を人間とみなさない支配であるが、
                      我が国の統治は同じ同胞としての統治である。
                      従って、我が国は小学校教育を台湾と朝鮮の全土に行き渡らせると共に、
                      殖産興業への道を拓き、豊かな台湾、豊かな朝鮮を実現しようとした。搾取ではない。

                      我が国の、人種差別を受け満身創痍になりながらの明治維新以来の孤軍奮闘によって、
                      二十世紀前半までの五百年にわたる欧米の「ヨーロッパ世界」による
                      人種差別とアジア・アフリカ支配は終焉した。
                      そして、世界は、我が国の昭和十六年十二月八日の
                      「東亜を明朗本然の姿に復す」という「帝国政府声明」と
                      同十八年の「大東亜共同宣言」の通り、
                      人種差別なき諸民族の個性を尊重する共存共栄の道に向かいつつある。

                      しかし、この段階に至って冒頭に記したように、
                      世界は、テロと闘争という危機におののいている。
                      その内、北朝鮮問題のように、
                      独裁者が保有しようとしている核を如何にして阻止するかは、
                      ある意味で単純である。
                      邪悪な独裁体制を壊せばいいのである。壊す方法と時期の問題だけだ。
                      問題は、一神教による世界制覇と平和の維持という五百年の試みが、
                      独善と偽善と異教徒の抑圧という人類の惨害をもたらして崩壊した後に、
                      何を以て平和を維持し人を幸せにする指針とするのかである。

                      そこで提言する。
                      「ヨーロッパ世界」よ。
                      二千年前のキリスト教以前の神々の世界の記憶を取り戻せ、と。
                      ヨーロッパは、中世からルネッサンスを経て近世に向かった。
                      しかし、その「ルネッサンス」は、
                      文芸復興と言われるようにギリシャ・ローマの文芸を復興しただけで、
                      ギリシャ・ローマの神々の復活ではなかった。
                      今こそ、ヨーロッパは、本当のルネッサンス、
                      つまりローマがキリスト教を国教化して以来、失われたケルトやガリアやゲルマンの神話の世界と神々を甦らせるルネッサンスを行うべきだ。
                      既に述べたがフランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースが、
                      「われわれ西洋人にとっては、神話と歴史の間に、ぽっかりと深淵が開いている」
                      と言った、その「深淵」を、
                      日本がそうであるように「緊密な絆」で繋ぐのだ。
                      何もキリスト教を忘れろと言っているのではない。
                      村に伝わる昔からの祭りや「ニーベルンゲンの歌」そして「神々の黄昏」には、
                      神々の世界が、まだ伝えられ演奏されているではないか。

                      十六世紀末の戦国時代、織田信長の前で、
                      キリスト教の宣教師と仏教の坊さんが論争することになった。
                      その時、坊さんが宣教師に質問した。
                      「全知全能の神がいて地球や我らを創造されたとするならば、何故、君らだけがその神を知っていて、俺たち日本人は今までその神を知らなかったのか」、
                      また、「何故、神は全知全能なのに悪魔がいるのか」と。
                      その時、その宣教師が、
                      「それもそうだなあ、なるほどなあ」と普通に言えたら、
                      ヨーロッパは、異教徒迫害・人種差別の「ヨーロッパ世界」にはならなかった。
                      はっきり言う。
                      ヨーロッパよ、日本人が太古からもっている普遍的で根源的な神々の世界に戻れ。
                      これはキリスト教以前のヨーロッパももっていた世界だし、
                      近代にいおいて、「ヨーロッパ世界」が滅ぼした原住民のもっていた
                      真の意味の宗教である。
                      その滅ぼされた原住民であった彼らと、我々日本人は、
                      何万年か前に、ユーラシアの何処かで同じ祖先をもっていた。
                      そして、ヨーロッパから最も離れた極東にあった日本だけが、
                      その先祖のもっていた根源的な神々の世界を現在まで伝えてきているのだ 。

                      posted by: samu | 歴史認識 | 11:41 | - | - | - | - |