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東日本大震災五周年追悼式
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    ー 東日本大震災五周年追悼式・天皇陛下のお言葉(平成28年3月11日)ー

     東日本大震災から5年が経ちました。ここに一同と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。

     5年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す死者、行方不明者が生じました。仙台平野を黒い壁のような波が非常な速さで押し寄せてくるテレビの映像は、決して忘れることができないものでした。このような津波に対して、どのような避難の道が確保できるのか暗澹たる気持ちになったことが思い起こされます。また、何人もの漁業者が、船を守るために沖に向け出航していく雄々しい姿も深く心に残っています。

    ...

     このような中で、自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者、さらには、一般市民が、厳しい状況の中で自らの危険や労をいとわず救助や捜索活動に携わったことに深い感謝の念を抱いています。

     地震、津波に続き、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染のため、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。事態の改善のために努力が続けられていますが、今なお、自らの家に帰還できないでいる人々を思うと心が痛みます。
    こうした苦難の中で、政府や全国の地方自治体と一緒になって、多数のボランティアが被災者のために支援活動を行いました。また、160を超える国・地域や多数の国際機関、また在日米軍が多大な支援に当たってくれたことも忘れることはできません。

     あれから5年、皆が協力して幾多の困難を乗り越え、復興に向けて努力を続けてきました。この結果、防災施設の整備、安全な居住地域の造成、産業の再建など進展が見られました。しかし、被災地で、また避難先で、今日もなお多くの人が苦難の生活を続けています。特に、年々高齢化していく被災者を始めとし、私どもの関心の届かぬ所で、いまだ人知れず苦しんでいる人も多くいるのではないかと心に掛かります。困難の中にいる人々一人ひとりが取り残されることなく、一日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう、これからも国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。

     日本は美しい自然に恵まれていますが、その自然は時に非常に危険な一面を見せることもあります。この度の大震災の大きな犠牲の下で学んだ教訓をいかし、国民皆が防災の心を培うとともに、それを次の世代に引き継ぎ、より安全な国土が築かれていくことを衷心より希望しています。今なお不自由な生活の中で、たゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、被災地に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。

     

    ー 東日本大震災五周年追悼式・安倍内閣総理大臣式辞(平成28年3月11日)ー

     本日ここに、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、「東日本大震災五周年追悼式」を挙行するに当たり、政府を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。

     かけがえのない多くの命が失われ、そして、多くの方の人生を一変させた、東日本大震災の発生から、早くも5年が過ぎました。

    ...

     最愛の御家族や御親族、御友人を亡くされた方々のお気持ちを思うと、今なお哀惜の念に堪えません。ここに改めて、衷心より哀悼の意を捧げます。また、被災された全ての方々に、心からお見舞いを申し上げます。

     被災地では、未だに、多くの方々が不自由な生活を送られています。原発事故のために、住み慣れた土地に戻れない方々も数多くおられます。被災地に足を運ぶ度、「まだ災害は続いている」、そのことを実感いたします。その中で、一歩ずつではありますが、復興は確実に前進しています。住まいとともに、生業の再生も本格化しています。

     被災者の方々お一人お一人が置かれた状況に寄り添いながら、今後とも、心と身体のケアや新たな地域社会の形成、被災地の産業の振興への支援などに力を注ぎ、魅力ある地方の創生につながるような復興を実現していく所存です。

     同時に、多くの犠牲の下に得られた貴重な教訓を、決して風化させることなく、常に最新の英知を取り入れながら、防災対策を不断に見直してまいります。政府一丸となって、災害に強い、強靭な国づくりを進めていくことを、改めて、ここに固くお誓いいたします。

     震災の発生以来、地元の方々や関係する全ての方々の大変な御努力に支えられながら、今日に至っております。日本各地のみならず、本日ここに御列席の、世界各国・各地域の皆様からも、多くの、温かく心強い御支援をいただきました。改めて、心より感謝と敬意を表したいと存じます。

     我が国は、今後とも、世界の皆様に向け、東日本大震災の教訓と被災地の復興の様子をお伝えし続けるとともに、我が国の知見と技術を少しでも役立てていただけるよう、防災分野における国際貢献を、一層強力に進めてまいります。

     我が国は、幾度となく、国難と言えるような災害に見舞われてきましたが、その度に、勇気と希望をもって乗り越えてまいりました。今を生きる私たちも、先人たちに倣い、手を携えて、前を向いて歩んでいくことを、改めてお誓いいたします。

     御霊の永遠に安らかならんことを改めてお祈り申し上げるとともに、御遺族の皆様の御平安を心から祈念し、私の式辞といたします。

    平成28年3月11日
    内閣総理大臣 安倍晋三

    posted by: samu | 歴史 | 14:38 | - | - | - | - |
    「神集い集ひて(かむつどいつどいて)」
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      http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc ブログより

      「わが国の戦前は非民主的な社会で、戦後アメリカに民主主義を与えられた」と信じる人は今日も多く存在します。戦前は軍国主義国家であり、戦後アメリカ(占領軍)から民主主義を与えられたという占領以来から続くプロパを信じる人も多く、教育現場などでは、占領以来一貫してこのように教えられてきました。マッカーサー信奉者などがそれである。これらはとんでもない嘘八百です。
       そもそも戦前は民主主義社会でした。現在の支那など社会主義体制などと異なり、完全な選挙が行われていました(成人男子のみ)。例えば大東亜戦争は圧倒的な民意の支持を受けて開始された戦争なのです。
      政府批判の自由もありました。マスコミを含み多くの人々は政府を批判していたのです。朝日新聞などは政府の弱腰を徹底して批判し煽りました。制限されたのは政府批判ではなく、根本的に國體を破壊させる言動(共産主義暴力革命思想)です。
       現在は成人男女に選挙権、立候補権があり、根本的に國體を破壊させる言動すら許容される社会体制である。これらは占領政策後に施行されました。しかし、これらをもって「民主主義を与えられた」と言うのはどうでしょうか?。先人をあまりにも愚弄する思い上がった考え方です。
      また戦前と比べて民主主義が退行している部分もある。日教組や日弁連など、民意に制御されない官僚系圧力組織が、政策その他に強力に介入している所だ。
       しかし、「アメリカに民主主義を与えられた」アメリカの占領政策そのものが極めて非民主的ではなかったでしょうか?。
       徹底した言論統制がしかれ日本国民はアメリカ占領軍を批判する自由など皆無でした。更に普通の民主社会ではありえない報復裁判(極東軍事裁判)などに及んでいる。
      当時アメリカでは黒人に選挙権はありませんでした。アメリカ自体がまともな民主国家ではなかったのです。
       「日本の戦前は非民主的な社会で、戦後アメリカに民主主義を与えられた」は完全なまやかしなのです。
      勿論、支那は有史以来選挙が行われたことはありません。
      わが国は明治22年アジアで最初の近代憲法を制定し、翌23年帝国議会を開催しました。なぜわが国がアジアで最初の選挙、議会政治を為し得たのでしょうか?
      欧米と似通った民主主義の土壌があったのでしょうか?
      明治元年、明治政府は国家の基本方針、「五箇条のご誓文」を発表しました。その第一条が「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」です。民主主義の根幹とも言える原理を新政府が掲げられたのです。
      しかもその淵源は「神代」の昔、天岩戸(あまのいわと)まで遡ります。
      古事記では「誓約で身の潔白を証明した建速須佐之男命は、高天原に居座った。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりの乱暴を働いた。他の神は天照大神に苦情をいうが、天照大神は「考えがあってのことなのだ」とスサノヲをかばった。
      しかし、天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
      そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。
      鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡(やたのかがみ)を作らせた。玉祖命に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせた。
      天児屋命と太玉命を呼び、雄鹿の肩の骨とははかの木で占い(太占)をさせた。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。アメノコヤネが祝詞(のりと)を唱え、天手力雄神が岩戸の脇に隠れて立った。
      天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。

      アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と太玉命が天照大神に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていたアメノタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。これを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。
      すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。こうして天照大神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。
      八百万の神は相談し、須佐之男命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。
      ここで重要なのは「八百万の神々」が「神集い集ひて(かむつどいつどいて)」多くの神が集まり、企画して天岩戸を開けました。
      また「八百万の神々」が「共に謀りて」多くの神々が相談して建速須佐之男命を罰し、追放したということです。
      高天原の統治者は天照大神です。大神の一存で建速須佐之男命は追放できたはずです。しかし大神はそうなさらなかった。
      天照大神は天岩戸に閉じこもられ八百万の神々に考える機会を与えられ、皆で相談、すなわち「衆議」によって沙汰することをさだめられたのです。
      『大祓詞』「(おおはらえのことば)は、神道の祭祀に用いられる祝詞」
      の冒頭の一節です。
      高天原爾神留坐須 皇賀親神漏岐神漏美命以知?
      八百萬神等乎神集閉爾集賜比 神議里爾議賜比?
      我賀皇御孫命波 豐葦原乃水穗國乎安國登平介久
      知食世登事依奉里伎
      此久依奉里志國中爾荒振留神等乎婆 神問波志爾
      問賜比 神掃比爾掃賜比? 語問比志磐根樹根立
      草乃片葉乎母語止米? 天乃磐座放知天乃八重雲乎
      伊頭乃千別伎爾千別伎?天降志依奉里伎
      現代語訳にすると
      高天原(たかまのはら ※天上の神々の国)にいらっしゃる皇祖神
      (すめみおやのかみ ※親神様)の御命令によって、八百万(数多く)の
      神々が一堂に集まり、幾度も議論が重ねられた。
      こうした神々による会議・相談の結果、
      皇御孫命(すめみまのみこと=瓊々岐命 ににぎのみこと)は
      豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに=日本国)を平和で
      穏やかな国として統治しなさい、とお任せになった。
      しかし、豊葦原瑞穂国には、素直に従う神もおれば、
      ご威光に従わず荒れ狂い暴れ回り、恭順を示さない神々もいた。
      そこで、瓊々岐命はそうした神々に『なぜ従わないのか』
      ということを幾度も問われたあと、それでも反抗し
      従わなかった神々を徹底して討伐し、追い払われた。
      こうして、荒ぶる神々だけでなく、言葉をしゃべっていた岩や、
      樹、一片の草にいたるまで、その言葉をやめて静かになったように
      国土が平穏になったので、瓊々岐命はその玉座を発たれ、幾重にも
      重なってたなびく雲を激しく千切るようにかき分け押し分け、
      高天原から地上に降臨された。
      ※参考資料 『神道行法の本』
      普段、何気なく聞いている「祝詞」の多くにわが国のお国柄の根幹が述べられているのです。
      また、聖徳太子が推古12年に定められた憲法17条はこの衆議公論の伝統を明文化されています。
      その第一条に、一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
      現代語訳にすると
      一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。
      これらは「和」に基づいた衆議公論を国家の基本として太子が定められたものです。
      よく識者と呼ばれる方々が欧米の民主主義の知識を振り翳されますが、わが国が衆議公論の伝統を紡いできた国家であることを国民に知らせません。
      偏向報道による世論誘導で情報弱者を惑わすことに終始しています。わが国にはわが国の衆議公論のありかたが存在します。
      遠い先人、神代に思いを馳せ、学ぶことが大事ではないでしょうか?
      上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらんことを・・・
      参考文献 戸部民夫 『日本神話…神々の壮麗なるドラマ』 
            『神道行法の本』 株式会社学習研究社
      posted by: samu | 歴史 | 10:55 | - | - | - | - |
      「 大東亜戦争の本質を見れば分かる「侵略」の一語でくくる危うさ 」櫻井よしこ
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        『週刊ダイヤモンド』 2015年8月22日号
        新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1096
         

        ポツダム宣言受諾から70年、さまざまな歴史論争が展開されている。本誌発売時点では安倍晋三首相の70年談話も発表されているだろう。談話に「侵略」の2文字を入れるべきだという要求もある。それには断固、反対だという声は、私も含めて、強い。
         
        そこで大東亜戦争の本質を考えてみよう。同戦争は大別して3つに分けられる。(1)日中戦争、(2)日米戦争、(3)ソ連参戦である。
         
        3つの骨格を見るだけで「侵略」の1語で大東亜戦争をくくることが果たして適切なのかが、分かるだろう。
         
        昭和21(1946)年4月まで有効だった日ソ中立条約を、ソ連は一方的に破棄して満州に攻め入った。その対日戦がいかに卑怯であったかについてはもはや多言を要しない。それでも8月9日付「産経新聞」1面トップの記事を、日本人は読むべきだ。編集委員の岡部伸氏がスクープした英国立公文書館所蔵の極秘文書である。
         
        それによると、ソ連のモロトフ外相はモスクワ時間の昭和20(45)年8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、佐藤尚武駐ソ連大使に宣戦布告文を読み上げ手渡した。佐藤大使は直ちに本国に打電したが、この公電はソ連当局が電報局を封鎖したため、日本政府には届かなかった。
         
        1時間後の、日本時間9日午前0時に157万人のソ連兵が3方向から満州へ怒濤のごとく攻め入った。日本政府がソ連の宣戦布告を知ったのは9日午前4時、ソ連軍侵攻開始から4時間後であり、情報はタス通信のモスクワ放送や米国のサンフランシスコ放送などから得たものだった。日本政府への正式な宣戦布告は、マリク駐日大使が東郷茂徳外相に告げた10日午前11時15分、侵攻開始から実に35時間以上も後だった。
         
        日本は真珠湾攻撃前に宣戦布告ができずに、「スニーキーアタック」と非難され、私たちはその1件を恥じてきた。が、ソ連の卑怯な行動は戦勝国であるために不問にされる。
         
        次に日米戦争。日米戦争の本質は、マッカーサー氏が米国議会で述べた言葉に尽きる。彼は敵国であった日本を憎み、世に「マッカーサー3原則」と呼ばれる考え方を示して日本国憲法の草案を書かせた。3原則の1つが、たとえ外敵に侵略されても日本は戦ってはならない、自衛のためでも戦ってはならないとする過酷なものだった。
         
        憲法草案を取りまとめたケーディス民政局長は、日本の生存権を否定する同条項は、さすがに行き過ぎだとして削除したが、そこまで日本を憎んでいたマッカーサー氏が、日本の対米戦争は自衛のための戦争だったと議会で証言したことを受け止めたいと思う。
         
        最後に日中戦争。日中戦争は昭和6(31)年9月18日の柳条湖事件に始まる満州事変から昭和20(45)年の敗戦までを指すという考え方がある。その考え方に沿って、満州事変が「侵略戦争」の始まりだと主張する人々にぜひ読んでほしい本がある。
         
        1冊は国際連盟が派遣したリットン調査団の報告書を渡部昇一氏が解説した『全文リットン報告書』である。もう1冊は、満州事変当時、在北京米国公使だったジョン・マクマリー氏の報告書である。『平和はいかに失われたか』の邦題で単行本になっている。
         
        少なくとも右の2冊を読めば、日中戦争さえも「侵略」の1語で定義することがいかに危ういか、気付いてもらえるだろう。
         
        歴史観ほど、国によって異なるものはない。個人も同様だ。国家間であれ、個人間であれ、歴史観の統一はなかなか難しい。私たちにできることは、可能な限り幅広く、当時の人々が見て、聞いて、考えてたどり着いた結論を学び、それらに基づいて考えることだ。そうすることが当時の状況のより深い理解につながると私は信じている。

        posted by: samu | 歴史 | 17:39 | - | - | - | - |
        中国の人民元切下げが世界の資本市場に激震を与える理由/Market Hack
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          中国の人民元切下げが世界の資本市場に激震を与える理由 8月12日 Market Hack

          昨日中国が人民元を1.9%切下げました。この切下げ幅は一見すると小さいように見えるけど、過去20年で最大です。

          この切下げのニュースは中国のマーケットよりドイツ、米国、その他新興国に大きなインパクトを与えました。

          海外の投資家が慌てているひとつの理由は、人民元切下げが信用市場に悪い影響を及ぼすことを懸念しているからです。

          まず背景を説明します。

          リーマンショック以降、米国以外の場所における米ドル建ての債務は急膨張しました。現在の残高は約9兆ドルです。

          そのうちの3.3兆ドルは新興国(青)の主体がカウンターパーティーとなっています。リーマンショック当時は1.9兆ドルだったので、短期間に1.4兆ドル増えたことになります。

          このうちのかなりの部分が中国のノンバンクの債務です。もっとざっくばらんな言い方をすればペーパー・カンパニーを使ったスキームです。

          このような米ドル建てでの借り入れを行った背景には(どうせ人民元と米ドルはゆるくペッグされているから、為替リスクは無いに等しい!)という横着な考え方がありました。

          もし人民元がどんどん切下がるのであれば、それは返済額が膨張することを意味するので、その中には返済できなくてデフォルトするものも出てこないとは限りません。

          それから別のシナリオになりますが、人民元が切下げられたことで、中国以外の新興国の通貨も売りプレッシャーを浴びています。ブラジル、インド、その他の新興国は近年、米ドル建ての借金を増やしていました。それらの国々も上の説明同様、返済負担が膨張するリスクに晒されているのです。

          つまり今回の中国の利下げ断行は、主に経済成長の問題に対応するための措置だったわけだけど、それが全面的な新興国通貨安を誘発すれば、それは信用リスクに姿を変えるというわけです。


          人民元切り下げ 〜 小さな切り下げが与える大きな衝撃 - 近藤駿介 8月12日

          ドル高の副産物といえるのかもしれません。中国人民銀行は11日、人民元を2%切り下げると発表しました。

          この1年間、米ドルはFRBのテーパリング、利上げ観測を背景にドル指数ベースで約17%上昇して来ました。人民元レートは基本世界で最も強い通貨米ドルに連動するよう為替介入によってコントロールされて来ましたので、この1年間で対円では約16.5%、対ユーロでは約15.6%上昇する結果となりました。

          こうした人民元レートの動きを反映して、中国の1〜7月の貿易額は対米国は2.8%増であったのに対して、対日本では11.0%減、対EUでも7.5%減となり、中国経済の足を引っ張る結果になりました。

          今回人民銀行が人民元の切り下げに踏み切ったのは、こうした国内要因があったことは間違いないところです。

          しかし、中国の国内要因として人民元切り下げはあり得る政策的選択肢だと言えますが、世界第2位の経済大国であり、世界第2位の経常黒字国である中国(2014年、第1位はドイツ)が国内要因だけで元切り下げに踏み切るというのは、国際秩序を乱す行為だと見做されても仕方がありません。

          中国が国内要因を優先する身勝手な政策を打ち出したことで、国際金融市場は不安定な状況に陥る可能性が出て来ていることには注意が必要です。

          米国の2015年1-6月期の貿易赤字は前年同期比0.6%の拡大でしたが、中国に対する赤字は前年同期比で9.8%拡大しており、6月単月の貿易赤字438億ドルのうち対中の貿易赤字は315億ドルと72%を占めています。

          米財務省は4月に公表した半期為替報告書で、中国の為替政策は米国をはじめとする貿易相手国への打撃になると批判したうえで、中国は過去10年にわたり人民元を切り上げてきたが、人民元は依然として「著しく過小評価」されていると指摘していました。

          こうした状況下で人民銀行が人民元の切り下げに踏み切ったということは、世界最大の経済大国と、世界第2位の経済大国の間のすきま風が強くなることを意味することです。これまで国際経済は、世界最大の経済大国米国と、世界第2位の経済大国であった西ドイツ、そして日本が協調してその秩序を保ってきました。

          しかし、政治体制の異なる中国が世界第2位の経済大国になったことで、世界最大の経済大国と第2位の経済大国が強調して国際秩序を保つということは期待できなくなりました。

          同時に、中国が目指していた「人民元の国際化」と「人民元経済圏」構想も、今回の国内要因に基づいた人民元切り上げによって自ら摘み取ってしまう結果になりました。

          僅か2%の通貨切り下げですが、その衝撃は「強い人民元」「人民元の国際化」「人民元経済圏」といった世界の金融市場の前提を崩壊させかねない大きなものになるかもしれません。


          株式日記と経済展望(私のコメント)

          このところの習近平政権が打ち出す経済政策は、まさにオウンゴールであり、経済の低迷は我慢のしどころであり、100兆円を株式の買い支えに投入したり、人民元の2%の切り下げをしたりと、なりふり構わぬ政策を打って来ています。

          この事は記事にもあるように、「中国が目指していた「人民元の国際化」と「人民元経済圏」構想も、今回の国内要因に基づいた人民元切り上げによって自ら摘み取ってしまう結果になりました。」という事になります。中国は国家自体が巨大なので、世界第二位の経済大国は大きいだけで近代化されていない。

          為替の自由化もしないで「人民元の国際化」など良いとこ取りをしようとしましたが、人民元はドルの裏付けがあって初めて通貨価値が認められている。だから外貨準備高も過大に公表しているようですが、それは見せかけであり、ドルの多くは海外に流出してしまっているようだ。

          人民元はドルに連動させているので為替リスクが無いと思われてきましたが、1日で2%の切り下げは新興国通貨の信用を揺るがせるものだ。やはりドルで持っていた方が良いと人民元や新興国の通貨からドルへの回帰が進むだろう。

          中国はアメリカへの輸出でドルを稼いでいますが、アメリカから見れば「6月単月の貿易赤字438億ドルのうち対中の貿易赤字は315億ドルと72%を占めています。」という事で、人民元はドルに対してまだ安すぎる事が言える。アメリカは日本に対しては円高で対応して来たのに、中国は人民元高に耐えられない。

          それでも中国は以前よりかは人民元が高くなり人件費や資材費も高くなりコスト高になってきました。チャイナプラスワンで外資の中国からの流出が止まりませんが、これを引き戻すためには人民元の切り下げしか手は無い。中国の外貨準備高がこの数か月で激減していますが、輸出から国内需要への切り替えが出来ていない。

          人民元がドルへのペグでEUや日本への為替が割高となり、貿易額で「対日本では11.0%減、対EUでも7.5%減となり、中国経済の足を引っ張る結果になりました。」特に日本に対しては中国人観光客の爆買いにみられるように日本製品は半額になってしまった。

          構造的には、日本から部品を輸入して組み立ててアメリカに輸出する構造となっていますが、中国が組み立てたスマホの主要部品が日本製であり、それをアメリカやEUに売っている。自動車などもエンジンなど主要部品が三菱製であり、中国でも部品は作っているが品質的に劣っている。

          人民元が割高になって来た事で、製品の作り過ぎが問題となり輸出が不振になって来た。国内では株の暴落や不動産のバブルも弾けてきましたが、過剰な在庫が不良債権となりつつある。伊藤忠商事は6000億円もの対中投資は1日で2%の損失となる計算であり、伊藤忠商事は1日で120億円損した事になる。

          中国は国内的にもノンバンクがドル建てで資金を調達していますが、元の切り下げは債務が膨らむことを意味します。新興国もドル建てで資金を調達していますがドル高で債務は膨らむ一方だ。韓国なども事情は同じですが、どうやってドルを調達して返すつもりだろうか。

           
          posted by: samu | 歴史 | 21:23 | - | - | - | - |
          福沢諭吉の脱亜論
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            • by 日本会議地方議員連盟

            今日は何の日 3月16日 1885年 - 『時事新報』の社説として福沢諭吉の脱亜論が掲載される。

            『脱亜論』(だつあろん)と一般に呼ばれるようになった論説は、もともとは新聞『時事新報』紙上に1885年(明治18年)3月16日に掲載された無署名の社説のことである。

            1933年(昭和8年)に石河幹明編『続福澤全集』第2巻(岩波書店)に収録されたため、以来福澤諭吉が執筆したと考えられるようになった。

            1950年(昭和25年)以前に「脱亜論」に言及した文献は発見されていない。発見されている最初の文献は翌1951年(昭和26年)11月に歴史家の遠山茂樹が発表した「日清戦争と福沢諭吉」(福沢研究会編『福沢研究』第6号)である。

            「脱亜論」が一般に有名になったのはさらに遅れて1960年代後半である

            1885年3月16日に脱亜論は新聞『時事新報』の社説として掲載された。原文は無署名の社説で、本文はカタカナ漢字表記、長さは400字詰原稿用紙で約6枚である[8]。

            §第1段落[編集]

            まず、執筆者は交通手段の発達による西洋文明の伝播を「文明は猶(なお=あたかも。まるで。)麻疹の流行の如し」と表現する。

            それに対し、これを防ぐのではなく「其蔓延を助け、国民をして早く其気風に浴せしむる」ことこそが重要であると唱える。

            その点において日本は文明化を受け入れ、「独リ日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し」、アジア的価値観から抜け出した、つまり脱亜を果たした唯一の国だと評する。

            §第2段落[編集]

            「不幸なるは近隣に国あり」として、支那(清)と朝鮮(李氏朝鮮)を挙げ、両者が近代化を拒否して儒教など旧態依然とした体制にのみ汲々とする点を指摘し「今の文明東漸の風潮に際し、迚も其独立を維持するの道ある可らず」と論じる。

            そして、甲申政変を念頭に置きつつ[4]両国に志士が出て明治維新のように政治体制を変革できればよいが、そうでなければ両国は「今より数年を出でずして亡国と為り」、西洋列強諸国に分割されてしまうだろう、と予測する。

            その上で、このままでは西洋人は清・朝鮮両国と日本を同一視してしまうだろう、間接的ではあるが外交に支障が少なからず出ている事は「我日本国の一大不幸」であると危惧する。

            そして、社説の結論部分において、東アジアの悪友である清国と朝鮮国とは、隣国という理由で特別な関係を持つのではなく欧米諸国と同じような付き合いかたにして、日本は独自に近代化を進めて行くことが望ましいと結んでいる。

            「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」とは「心(感情)」という個人的な感情を表した表現であって、「国家関係として日本と朝鮮とは縁を切って国交断絶すべき」というような主張ではない。

            §「脱亜論」執筆の背景

            §福澤諭吉と朝鮮との関係

            福澤が創設した慶應義塾には近代における朝鮮からの正式な留学生の第1号として兪吉濬が1881年(明治14年)6月以来学んでおり、福澤は兪を通じて朝鮮への理解を深め、諺文(ハングル)使用が朝鮮近代化と民衆の教化に必要と考えていた。

            1881年(明治14年)に訪日した開化派の金玉均とも親交を結んだ福澤は『時事小言』を発表し、朝鮮の文化的誘導の必要性を主張した。

            さらに、1882年(明治15年)7月23日に発生し日本公使館が襲撃され日本人が殺害された壬午事変の事後処理のため同年9月に訪日した朴泳孝を正使とする修信使が福澤を訪問した。

            日本の文物を視察しながら朝鮮近代化の方策を模索していた金玉均を含む修信使一行は福澤にこれを推進するための要員斡旋を依頼した。

            同年9月8日付け『時事新報』は社説「朝鮮の償金五十萬圓」で「今朝鮮國をして我國と方向を一にし共に日新の文明に進ましめんとするには、大に全國の人心を一變するの法に由らざる可らず。

            即ち文明の新事物を輸入せしむること是なり。海港修築す可し、燈臺建設す可し、電信線を通じ、郵便法を設け、鐵道を敷き、滊船を運轉し、新學術の學校を興し、新聞紙を發行する等、一々枚擧す可からず」と報じた。

            福澤は朝鮮開化の具体的手段のひとつとして新聞発行に同意した修信使に慶應義塾出身の牛場卓蔵と高橋正信を学事顧問名義で斡旋するとともに、朝鮮事情調査を目的として福澤家で書生をしていた井上角五郎を同行させた。

            1883年(明治16年)1月11日〜13日付け『時事新報』は社説「牛場卓造君朝鮮に行く」を掲載した[12][13]。また、福澤は発行する新聞に漢諺混合文の採用を強く推し、自費でハングル活字を鋳造させていた[9]。

            1883年(明治16年)1月に帰国した朴泳孝は漢城府判尹(知事)に就任し、国王高宗から漠城府主導下に新聞を発行する許可を得たものの、壬午事変後の守旧派の巻き返しにより左遷されて新聞発行は頓挫し、牛場と高橋の両名は帰国した。

            残った井上は統理交渉通商事務衙門協弁(外務次官)金允植の知遇を得て同年6月に外交顧問、新聞発行の主体となった博文局主任となり、10月に朝鮮近代で最初の新聞である『漢城旬報』発行にこぎつけた。

            しかし、1884年(明治17年)1月30日付け第10号掲載の清国兵の横暴を諌める記事「華兵犯罪」が清国勢力に咎められ、井上は責任を取る形で辞任、帰国に追い込まれた。

            日本の外務省の支持を受けて井上は同年7月に朝鮮に再渡航し、朝鮮の外務顧問と博文局主任の地位に復し、井上の離任後暫くして休刊となっていた『漢城旬報』を再刊した。

            しかし、12月4日に朝鮮で起きた甲申政変に清が介入し、『漢城旬報』の印刷所も焼き討ちにあって廃刊。新聞発行の支持基盤であった開化派は一掃され、井上は12月11日に朝鮮を離れた。

            §「脱亜論」掲載前の論説[編集]

            ウィキソースに朝鮮独立党の処刑の原文があります。

            「脱亜論」の約3週間前の1885年(明治18年)2月23日と2月26日に掲載された論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」がある。

            この論説では、甲申政変後に金玉均、徐載弼、徐光範ら開化派の三親等が全て残忍な方法で処刑されたことを非難している。(ただし、金玉均の妻子は後に発見された。)

            平山洋は『福沢諭吉の真実』において、「脱亜論」がこの論説(後編)の要約になっていると主張している。また、次の記述が「脱亜論」にも影響を与えたのではないかと指摘している。
             

            人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩は此国を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わんと欲する者なり。而して此地獄国の当局者は誰ぞと尋るに、事大党政府の官吏にして、其後見の実力を有する者は即ち支那人なり。我輩は千里遠隔の隣国に居り、固より其国事に縁なき者なれども、此事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも涙落ちて原稿紙を潤おすを覚えざるなり。



            — 『時事新報』1885年(明治18年)2月26日、Wikisource-logo.svg 朝鮮独立党の処刑(後編)

            §「脱亜論」掲載後の論説[編集]

            ウィキソースに朝鮮人民のために其国の滅亡を賀すの原文があります。

            「脱亜論」の5ヶ月後の1885年(明治18年)8月13日に掲載された論説に、「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す(朝鮮滅亡論)」がある。政府による「一国民としての栄誉、生命と私有財産の保護」が行われない現状であるならば、朝鮮に支配の手を伸ばしているイギリスやロシアの法治にある方が、朝鮮人民にとっては幸福ではないかと逆説的な主張をしている。この論説の結尾はこの通りである。(この社説を掲載した時事新報は、8月15日から1週間の発行停止処分となったため、続編の「朝鮮の滅亡は其国の大勢に於て免るべからず」は没となった。)
             

            故に我輩は朝鮮の滅亡、其期遠からざるを察して、一応は政府のために之を弔し、顧みて其国民の為には之を賀せんと欲する者なり。



            — 『時事新報』1885年(明治18年)8月13日、Wikisource-logo.svg 朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す
            posted by: samu | 歴史 | 09:40 | - | - | - | - |
            1939年 - 全国の招魂社を護国神社に改称
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              • by 日本会議地方議員連盟

              招魂社(しょうこんしゃ)は明治維新前後から、また以降に国家のために殉難した英霊を奉祀した各地の神社。

              東京招魂社は1879年(明治12年)に明治天皇の命名により靖国神社と改称。地方の招魂社は1939年(昭和14年)護国神社と改称。

              そういういきさつがあるので、明治末期になっても靖国神社という名称よりも、招魂社という名で庶民には親しまれていた(夏目漱石の『吾輩は猫である』の中に幼い娘の発言に「招魂社」が登場する)。

              また、日本初の招魂社は櫻山招魂場(現・櫻山神社、慶応元年(1865年)8月、山口県下関市)である。

              王朝時代には、死者に対する陰陽道の招魂祭(しょうこんのまつり)は禁止されていた。死者・生者に対する神道儀礼は鎮魂祭と称されていた。

              靖国神社の旧称「東京招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する[1]」可能性があるために廃されたという。ただし、名称変更後も「招魂祭」(しょうこんさい)は続けられた。

              靖国神社の起源

              靖国神社の起源は明治2年(1869)6月29日に建てられた東京招魂社に遡りますが、当時の日本は、近代的統一国家として大きく生まれ変わろうとする歴史的大変革(明治維新)の過程にありました。そ

              れ以前、日本は徳川幕府の政権下にあり、約250年にわたって鎖国政策をとり海外との交流を厳しく制限していました。

              ところが、アメリカや西欧諸国のアジア進出に伴って日本に対する開国要求が強まると、開国派と鎖国派の対立が激化し、日本の国内は大きな混乱に陥ります。

              そうした危機的状況を乗り切る力を失った徳川幕府は、ついに政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出すこととなったのです。

              しかし、そうした大変革は、一方において国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの同士の尊い命が失われる結果となりました。

              そこで明治天皇は明治2年6月、国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段のこの地に「招魂社」を創建したのです。

              この招魂社が今日の靖国神社の前身で、明治12年(1879)6月4日には社号が「靖国神社」と改められ別格官幣社に列せられました。

              靖国神社の御祭神

              靖国神社には、戊辰戦争やその後に起こった佐賀の乱、西南戦争といった国内の戦いで、近代日本の出発点となった明治維新の大事業遂行のために命を落とされた方々をはじめ、

              明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作・橋本左内といった歴史的に著名な幕末の志士達、

              さらには日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・支那事変・大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して国家防衛のために亡くなられた方々の神霊が祀られており、その数は246万6千余柱に及びます。

              靖国神社に祀られているのは軍人ばかりでなく、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒など、軍属・文官・民間の方々も数多く含まれており、

              その当時、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々などの神霊も祀られています(参考資料)。

              このように多くの方々の神霊が、身分・勲功・男女の区別なく、祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として一律平等に祀られているのは、靖国神社の目的が唯一、「国家のために一命を捧げられた方々を慰霊顕彰すること」にあるからです。

              つまり、靖国神社に祀られている246万6千余柱の神霊は、「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」であるという一点において共通しているのです。

              靖国神社と日本人

              我が国には今も、死者の御霊を神として祀り崇敬の対象とする文化・伝統が残されています。日本人は昔から、死者の御霊はこの国土に永遠に留まり、子孫を見守ってくれると信じてきました。

              今も日本の家庭で祖先の御霊が「家庭の守り神」として大切にされているのは、こうした伝統的な考えが神道の信仰とともに日本人に受け継がれているからです。

              そして同様に、日本人は家庭という共同体に限らず、地域社会や国家という共同体にとって大切な働きをした死者の御霊を、地域社会や国家の守り神(神霊)と考え大切にしてきました。

              靖国神社や全国にある護国神社は、そうした日本固有の文化実例の一つということができるでしょう。

              posted by: samu | 歴史 | 09:46 | - | - | - | - |
              今日は何の日 11月3日
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                • by 日本会議地方議員連盟

                今日は何の日 11月3日 明治13(1880)年 - 天長節祝賀の宮中で「君が代」が初めて披露される。

                 11月3日は明治天皇(在位1868年〜1912年)の誕生日であった。

                 天皇誕生日は、「天皇の誕生日を祝う。」ことを趣旨としている。

                 その時在位中の天皇の誕生日を祝う日である。天皇誕生日は、慣例により日本の国家の日とされる。

                 1948年(昭和23年)までは、天長節(てんちょうせつ)と呼ばれていた。

                 君が代は、1880年(明治13年)、法律では定められなかったが、日本の国歌として「君が代」が採用された。

                 この国歌のテーマは皇統の永続性であり、歌詞は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている

                 短歌の一つである。

                   君が代は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

                800px-Shimogamo-Sazareishi-M1641.jpg
                さざれ石、京都の賀茂御祖神社
                 
                さざれ石(細石、さざれいし)は、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を

                炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指す。

                歌詞中のさざれ石(細石)は文字通り、細かい石・小石の意であり、それらの小石が巌(いわお)となり、さらにその上に苔が生えるまでの過程が、非常に長い年月を表す比喩として用いられている。

                国歌についてはいろんな考え方があるだろう・・・・。

                しかし、国歌、国旗が法律で定められた以上、これを受け入れるのが義務だと思う。

                あらためて『君が代』の意味をかみしめると、

                皇統の永続性への願いは、素直に国家の永続性を思う愛国心を表すものだと思う。

                11月3日

                 明治天皇の誕生日は、崩御後は祝日ではなくなったが、崩御から15年後の昭和2年(1927年)、

                 明治節という祝日となった。

                 戦後は同じ日が国民の祝日「文化の日」となったが、これは昭和21年(1946年)の11月3日に

                 日本国憲法が公布されたことに由来し、明治節とは関係なく定められたということになっている。

                 ただし、当時の首相である吉田茂は、憲法制定のスケジュールを、当初は8月11日公布、

                 2月11日(紀元節)施行とし、その日程に間に合わなかったことから11月3日(明治節)公布、

                 5月3日施行にしており、意図的にそれまでの四大節に日程を合わせている。

                 四大節(四方節1月1日、紀元節2月11日、天長節天皇誕生日、明治節11月3日)

                ////////////////

                西村眞悟の時事通信

                十一月三日の昼前後、京都伏見桃山の明治天皇御陵に参拝し、感銘を新たにしてその御前で過ごした。
                この日は、明治天皇のお誕生日である。

                明治天皇の元で、国民は日清日露戦役の国難を乗り切って、
                非白人世界で唯一の独立自尊の誇り高い近代国民国家を築き上げた。
                この難戦のなかで敢然として死地に赴く日本軍将兵の姿は、欧米からの観戦武官を驚嘆させ、
                彼らの本国は明治天皇の発せられた教育勅語の精神を尊重するとともに、
                日本軍の如く戦える将兵を養成することを目指し、日本軍の闘いをモデルとして第一次欧州戦争を戦ってゆく。
                これが、明治天皇と共にあった明治の御世である。

                明治天皇崩御によって大正の御世となり、この大正に生まれ明治生まれの両親に育てられた世代が次の昭和天皇と共に大東亜戦争を戦う。
                この大東亜戦争の戦闘に我が国は敗北した。
                大正に生まれた男子は千三百四十八万人であり、その七分の一の二百万人が戦死した。
                しかし我が国は、戦闘で敗れたが、国家の理想と戦争の目的において勝利した。
                大東亜戦争において我が国は、フランスのドゴールやイギリスのチャーチルが認めたように、
                白人の五百年にわたる有色人種支配体制を打ち砕いたからである。

                そして、戦闘に敗れて連合軍の占領下に入って迎えた初めての正月元旦、昭和天皇は、歴史的詔書を発せられた。
                その詔書は、冒頭、
                「茲に新年を迎ふ。顧みれば明治天皇明治の初め、国是として五箇条の御誓文を下した給へり。」とされ、
                「叡旨公明正大、又何をか加へん。朕は茲に誓いを新たにして国運を開かんと欲す」と宣言された。
                即ち、昭和天皇は、明治天皇の五箇条の御誓文を以て、敗戦という国難を克服して我が国のみならず「世界人類のために輝かしき前途」を開こうと国民に呼びかけ励まされた。
                そして末尾を次の感銘深い言葉を以て締めくくられた。
                「一年の計は年頭にあり。
                朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして、自ら奮い、自ら励まし、以てこの大業を成就せんことを庶幾ふ(こいねがふ)」

                よって、明治天皇の明治元年に鮮明にされた我が国家と国民の志は、昭和二十一年元旦の昭和天皇の詔書によって、現在の我が国家と国民の志となって継承されているのである。
                即ち、我が国において、明治と昭和そして平成の現在まで、戦前戦後は断絶せずに連続しているのである。
                そして、この国家と国民の連続性を取り戻すことが、
                「日本を取り戻すこと」であり「戦後体制からの脱却」なのだ。
                従って、現在に至る我が国家と国民の志の起点を鮮明にされた明治天皇のお誕生日である十一月三日こそ、
                真の国民の記念日でありナショナル・デーである。

                然るに、昭和二十年九月から七年間にわたって我が国を占領統治した連合国総司令部(GHQ)は、
                我が国を「永遠に弱小国家に固定する為」(日本国憲法の起草者チャールズ・ケーディス)に次の通り、
                輝かしい明治の御世を我が国民の意識から消し去ろうとした。

                ‘本国憲法前文において、明治の「憲法、法令、詔勅」を「人類普遍の原理に反する」として
                「排除する」と規定たうえで、その明治天皇のお誕生日である昭和二十一年十一月三日にそれを公布した。
                ¬声には天長節、その後は、明治節として国民の祝日となっていた十一月三日を「文化の日」として、
                明治天皇のお誕生日の記憶を国民から奪った。
                この明治天皇の示された志を、昭和の継承すると宣言された昭和二十一年元旦の昭和天皇の詔書に、
                ことあろうに「人間宣言」というレッテルを貼ってその深く尊い「おおみこころ」を国民から隠蔽した。

                その結果、戦後生まれが国民の大半となった現在、
                私を含めて、未だ十一月三日に、明治天皇のお誕生日をお祝いした経験がない。
                まさに、我が国においては、現在においても、GHQの亡国の奸計は、脈々と、生きている。
                そして、毎年、十一月三日が来れば、文化勲章の日の報道一色となり、
                明治天皇の志を忘却させるというその奸計の効果は年々再生産されて浸透してゆく。

                よって、我々は、まず、
                十一月三日を、「文化の日」ではなく「明治の日」として歴史を取り戻さねばならない。
                このことは、国家と国民の輝かしい誇りある歴史と志と活力を取り戻すことである。

                諸兄姉の、「祝日法改正」による「明治の日」制定を熱望する署名活動と国民運動へのご参加を
                切にお願いいたします。
                posted by: samu | 歴史 | 09:42 | - | - | - | - |
                不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)が発効
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                  • by 日本会議地方議員連盟

                  今日は何の日 7月24日 1929(昭和4)年 - 不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)が発効。

                  西欧においてできた国際法において、第一次世界大戦まで「侵略」なる概念は存在しなかった。

                  「文明の低い」地域は無主地とみなされ、これを戦争によって植民地化するのは自由だと考えられていた。住民を奴隷化するのも虐殺するのも自由だった(これが白人の考えだった)。

                  これが当時の国際法(白人が勝手に定めたもの)の原則で、欧米列強は競ってアジアやアフリカ、南米などの有色人種の地域を植民地化し、住民を虐殺しまくり、奴隷化していった。
                   
                  1919年のパリ講和会議で日本は国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を入れるよう要求したが、アメリカ、イギリスを初めとする人種差別当たり前の白人諸国に反対され、否決された。

                    日本の人種差別撤廃提案

                  ところが、第一次世界大戦での被害が莫大で、無差別に戦争を行なえば世界は破滅に向かうとの反省が起こり、諸国間で「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する」との不戦条約が結ばれた。

                  アメリカの国務長官ケロッグとフランスの外相ブリアンの名前から「ケロッグ・ブリアン協定」と呼ばれる。紛争は戦争ではなく平和的手段により解決すると規定された。

                  「戦争放棄」を宣言してるために「戦争放棄に関する条約」というが、自衛の戦争は除くとされた。

                  「侵略は悪である」と初めて定めた画期的な条約のはずなのだが、「侵略」の定義が「当事国の自国裁量権に任せる」とされた。

                  つまり、その国が侵略戦争と認めれば侵略戦争、自衛戦争と認めれば自衛戦争ということになった(この点から大東亜戦争は名目とも間違いなく自衛戦争だった)。

                  戦争にはお互いに言い分があるので、こういう規定にしかならなかった。このため、韓国に侵略して朝鮮戦争を引き起こした北朝鮮も、イラクを侵略したアメリカも、自分たちの戦争を「侵略戦争」と認めていない。

                  だから、「侵略国」などという国は永遠に現れるわけがないはずなのだが、日本の細川護煕という馬鹿は首相在任中の1993年(平成5)に「日本は侵略戦争をした」とたわけたことをのたまってしまっている。

                    細川「侵略戦争」発言

                  アメリカ国務長官のケロッグは「自衛戦を禁止するものではない。自衛か否かは各国に決める権利がある。

                  自衛の概念は広範で、経済的脅威に対するものまで含められる」という趣旨のことを議会で述べている。

                  パール判事はこれらを指摘し、不戦条約を破ったとして日本を断罪することはできないとした。

                    パール判決書

                  実際の不戦条約侵犯第一号はソ連だった。

                  昭和4年(1929)、満州の張学良政権はハルピンのソ連領事館捜索で共産革命計画の証拠を押収したがのを機会に、東支鉄道の実力回収に踏み切ったのに対し、ソ連は空陸両軍をもってソ満国境を越え、満州に侵略した。

                  アメリカ、イギリス、フランス、イタリアは不戦条約の義務につきソ連に抗議したが、ソ連はソ連軍の満洲侵攻は「自衛行動」だとして反論し、第三国の干渉を拒絶した。

                  一方、その2年後の満州事変において、日本は関東軍の行動は自衛のためであると主張したが、アメリカは日本が不戦条約に違反しているとして非難した。

                  リットン報告書も日本の自衛の主張を否認した。

                  ソ連は満洲事変の2年も前に不戦条約を破って自衛の名の下に侵略を行なっていたのである。

                  そのソ連が東京裁判で満洲事変以降の日本の政策を侵略と断罪したのだからあきれる話である。

                  結局、「不戦条約」とはこの程度のものだったのだが、東京裁判では日本はこの条約に違反したとして裁かれた。

                  東京裁判の検事キーナンは、日本が昭和3年(1928)から支那侵略を開始したので太平洋戦争は15年戦争だと言ったが、なぜこんな見方が出るのかというと、それはこのケロッグ・ブリアン条約による。



                   
                  posted by: samu | 歴史 | 09:02 | - | - | - | - |
                  今日は何の日/日英同盟がロンドンで締結
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                    今日は何の日 明治35(1902)年 - 日英同盟がロンドンで締結。



                    日英同盟(にちえいどうめい、Anglo-Japanese Alliance)は、日本とイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)との間の軍事同盟。1902年1月30日調印発効、1923年8月17日失効。

                    第一次日英同盟は、1902(明治35)年1月30日に調印され即時に発効した。その後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新され、1923年8月17日に失効した。第一次世界大戦までの間、日本の外交政策の基盤となった。

                    日英同盟は、イギリスのロンドンのランズダウン侯爵邸(現The Lansdowne Club 地図)において、林董駐英公使とイギリスのランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス外相により調印された。

                    経緯

                    イギリスは義和団の乱以来満州から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていたが、イギリス単独ではイギリスの中国における利権の維持にあたるには限界があった。
                     
                    そこで、それまでの「栄光ある孤立」政策を捨て、まずドイツとの交渉を試みるも、ドイツはロシアと手を結んだため失敗し、その後義和団の乱で活躍した日本に接近した。

                    日本では、伊藤博文や井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていたが、山縣有朋や桂太郎や西郷従道や松方正義や加藤高明らはロシアとの対立はいずれ避けられないと判断してイギリスとの同盟論を唱えた。

                    結果、日露協商交渉は失敗し、外相小村寿太郎の交渉により日英同盟が締結された。調印時の日本側代表は林董特命全権公使、イギリス側代表はペティ=フィッツモーリス外務大臣であった。

                    第一次日英同盟の内容は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、

                    さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものである。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。

                    条約締結から2年後の1904年には日露戦争が勃発した。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。

                    第二次日英同盟では、イギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあうとともに、清国に対する両国の機会均等を定め、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けられた(攻守同盟)。

                    第三次日英同盟では、アメリカが、交戦相手国の対象外に定められた。ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかったが、これは日本、イギリス、ロシアの3国を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。

                    また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。第一次世界大戦後の1919年、パリ講和会議で利害が対立し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残り、

                    1921年、国際連盟規約への抵触、日英双方国内での日英同盟更新反対論、日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑、日本政府の対米協調路線を背景にワシントン会議が開催され、

                    ここで、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の更新は行わないことが決定され、1923年、日英同盟は拡大解消した。

                    日英同盟と日露戦争

                    日本にとって、当時、世界一の超大国であったロシア帝国の脅威は国家存亡の問題であった。それは、日本側は日清戦争勝利による中国大陸への影響力の増加、ロシア帝国側は外交政策による三国干渉後の旅順・大連租借権・満州鉄道利権の獲得により顕著になった。両国の世論も開戦の機運を高めていった。

                    しかし、日本の勝算は非常に低く、資金調達に苦労していた。日英同盟はこの状況に少なからず日本にとって良い影響を与えた。

                    当時のロシア帝国は対ドイツ政策としてフランス共和国と同盟関係(露仏同盟)になっていた。日露開戦となると、当然軍事同盟である露仏同盟が発動し、日本は対露・対仏戦となってしまう危険性を孕んでいた。

                    以上の状況に牽制として結ばれた日英同盟は、1対1の戦争の場合は中立を、1対複数の場合に参戦を義務づけるという特殊な条約であった(これは戦況の拡大を抑止する効果だと思われる)。

                    結果、日英同盟は露仏同盟にとって強力な抑止力となった。上記の条約内容からフランスは対日戦に踏み込むことができなくなったばかりか、軍事・非軍事を問わず対露協力ができなくなった。

                    当時、世界の重要な拠点はイギリス・フランスの植民地になっており、主要港も同様であった。日本海海戦により壊滅したバルチック艦隊は極東への回航に際して港に入ることができず、スエズ運河等の主要航路も制限を受けた。また、イギリスの諜報により逐一本国へ情報を流されていた。

                    日本にとって日英同盟は、軍事資金調達の後ろ盾・フランス参戦の回避・軍事的なイギリスからの援助・対露妨害の強化といった側面を持つことになった。

                    ちなみに日露戦争においてはモンテネグロ公国も日本に対して宣戦布告したとされる。その場合、日本は国際法上2国を相手に戦争したこととなり、イギリスに参戦義務が生じていたこととなる。

                    結局、モンテネグロ公国の宣戦布告は無視され、モンテネグロは戦闘に参加せず、講和会議にも招かれていない。

                    もっとも、モンテネグロが実際に宣戦布告していたか、宣戦布告が正規のものだったかどうかは、異説がある。

                    しかしながら、2006年6月には、日本はモンテネグロに外務大臣と首相の特使を派遣し、モンテネグロの独立承認と戦争の終了を宣言する文書を届けた。

                    これにより、101年に渡る両国の戦争状態が終わったとされる。(参考:技術上の問題で戦争状態が延びてしまった戦争のリスト(英語版))
                    posted by: samu | 歴史 | 10:48 | - | - | - | - |
                    安倍内閣総理大臣 平成26年 年頭所感
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                      新年あけましておめでとうございます。

                       1年前。

                       遅れる復興、長引くデフレと経済の低迷、主権への相次ぐ挑発、そして、教育の危機。就任6日で迎えた元旦は、みなぎる意欲と使命感の一方で、重責への緊張感でいっぱいであったことを思い出します。

                       それから1年。

                       経済政策の大転換、TPP交渉への参加、震災復興の立て直し、オリンピック・パラリンピックの誘致、消費税。さらには、NSC(国家安全保障会議)と国家安全保障戦略を新たに創り、防衛大綱を見直す。「決断」と「行動」の365日は、長く厳しい道のりでありました。

                       しかし、「強い日本」を取り戻す戦いは、始まったばかり。今後も、長く厳しい道のりを、緊張感を持って進んで行く覚悟を、一年の始まりにあたって、新たにしています。

                       大震災から3度目の元旦となる本日も、避難生活の中で迎える方がまだまだいらっしゃいます。住宅再建を進め、次の元旦こそは、できるだけ多くの方に、新たな住まいで迎えていただきたい。東京電力福島第一原発の廃炉・汚染水対策を着実に進め、原発事故により避難生活を余儀なくされている福島の皆さんにも、一日も早く普通の生活に戻っていただきたい。

                       その思いで、復興をさらに加速させてまいります。

                       日本経済は、「三本の矢」により、マイナスからプラスへと大きく転換しました。しかし、20年近くにわたってこびりついた「デフレ」からの脱却は、いまだ道半ば。「強い経済」を取り戻すべく、引き続き、全力で取り組んでまいります。

                       その目指すところは、頑張る人たちの雇用を拡大し、収入を増やすことです。景気回復の実感を、中小企業・小規模事業者の皆さんをはじめ、全国津々浦々にまで、必ずやお届けしてまいります。

                       一年の計は、穀を樹うるに如くはなく、
                       十年の計は、木を樹うるに如くはなく、
                       終身の計は、人を樹うるに如くはなし。

                       中国の春秋時代、名宰相と呼ばれた管仲の言葉です。

                       目先の課題への対応も重要ですが、十年先、百年先の日本の未来を切り拓いていくことも、忘れてはなりません。そして、そのためには、小手先の対応ではなく、将来のあるべき姿を見定めた、真の改革が必要です。

                       相互依存を深める世界において、内向きな発想では、もはや日本の平和を守ることはできません。日本が、これまで以上に、世界の平和と安定に積極的な役割を果たす。この「積極的平和主義」こそが、我が国が背負うべき「21世紀の看板」であると、私は確信いたします。

                       国民の生命と財産、日本の領土・領海・領空は、断固として守り抜く。そのための基盤を整えてまいります。

                       人づくりこそは、「終身の計」。日本に生まれたことに誇りを持ち、高い学力と豊かな人間性を兼ね備えた人材を育んでいく。そのための教育再生を、着実に実行してまいります。

                       さらに、「国のかたち」を表す憲法についても、制定から68年になろうとする今、時代の変化を捉えた改正に向けて、国民的な議論をさらに深めていくべきであると考えています。

                       昭和26年の元旦。振り返れば、日本は、いまだ占領下にありました。その年に結ばれた、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約から、戦後「日本」の歩みが始まりました。

                       そして、平成26年の元旦。現代の私たちもまた、日本の「新しい国づくり」に向けて、大きな一歩を踏み出すべき時です。

                       戦後以来の大改革を進めるのは、簡単なことではないでしょう。もとより、困難は、承知の上です。

                       しかし、今あるのは、未来への希望です。なぜなら、先の総選挙と昨年の参議院選挙において、国民の皆さんの力によって、政治が大きく変わったからです。そして、経済も変わりました。さらに、社会も変わりつつあります。

                       国民の皆さんには、その「力」がある。私は、国民の皆さんと共であれば、いかなる困難も乗り越えられる。「誇りある日本」を取り戻すことができる。新年のスタートにあたって、改めて、そう思います。

                       最後に、国民の皆さんの一層の御理解と御支援をお願い申し上げるとともに、本年が、皆さん一人ひとりにとって、実り多き素晴らしい一年となりますよう心よりお祈り申し上げます。

                      平成26年1月1日
                      内閣総理大臣 安倍晋三

                      posted by: samu | 歴史 | 15:05 | - | - | - | - |