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国家を強くする「常識」を持とう/古田博司
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    常識のない私まで常識について語らなければならない時代になっている。ということは、日本人に常識がなくなってしまったのではなく、常識まで論理的に語らなければよく分からない時代になってしまったということだ。

     でも元の常識で考えてほしい。大相撲の協会の理事選挙、なぜ選挙人の親方が101人もいるのか。ディズニー映画の「101匹わんちゃん大行進」じゃあるまいし。常識的におかしくはないか。

     安倍晋三首相はなぜ韓国のオリンピック開会式に行ったのか。もう社会主義経済なんかやっていない、ただの独裁国を欽慕(きんぼ)する空想社会主義者の“文在寅ルーピー政権”を国益のために説得しに行ったのである。これが常識であり行っても無駄だというのは、私の意見にすぎない。

    ≪自分たちの文化を育てない韓国≫

     じつは常識には、国家も民族も絡んでいるのである。国家というのはハード、民族というのはソフトだと思うと分かりやすい。民族が50以上ある中国では、いったいだれが中国人なのかよく分からない。そこで、「中華民族」などというウソをつく。

    民族とは何かといえば、「因果のストーリーを共有する人々」のことである。因果のストーリーとは、歴史、文法、常識などのことをいう。こうなればこういう行動を取るとか、こう喋(しゃべ)ればうまく通じるとか、「こうするとこうなる」式の因果のストーリーである。これを豊かにするのが文化だ。刺し身はこう切ると日本料理が美しくなるとか、そういう体得の集積である。

     韓国はこれがダメだ。もともと宗主国文化を主の文化として、自分たちの文化を育てない。チョゴリだってチェゲジメグチ(蒙古文語)、壁掛けのメドゥプはシナの結芸(チェイー)、シナ料理の火鍋子(フォクォツ)は神仙炉(シンソンノ)に化けている。

     その上、1970年代に文教部主導で、「われわれは中国文化を受け入れそれを模倣するに留(とど)まらず、またそれに同化しわが文化の本当の姿を失うことはなかった。わが民族は中国文化を受容し、それを民族と国家の繁栄に適切に、再び創意力を発揮し、新しい文化を創造してきた」(韓国教育開発院『高等学校世界史』国定 79年)と、また自己チュウのウソを全国に教え広めてしまった。

     これが、「受容すればわれわれのものだ」という、いわゆる「ウリジナル」へと発展していくのである。剣道も茶道も孔子様までウリ(自分たち)のモノと言ってはばからなくなった。

    ≪サバイバルについて行けるか≫

     だから文教政策は大事なのである。藤原正彦さんが「愚かなる小学校英語」(『週刊新潮』)で諭している。2020年から小学校の英語が教科に格上げされる。教科書が作られテストが行われ、通知表に成績がつく。でも、小学校教諭で英検準1級以上を持つものは1%もいない。また教師の過労死が増えるだけ。それで子供の頃から英語をうまく操る人への憧れと劣等感を育むだけ。常識で分かることを論理的に言わなければならない。

     会社でも銀行でも、官庁でも大学でも相撲界でも、いま上の方の人たちに物の分からない人が増えている。物が分からないというのは、時間の変化、時代の推移が分からないということだ。近代は終わったし、資本主義はグローバル段階に入ったのである。ネットでモノ・ヒト・カネが自由に速く動く。かつてそれで国境も消えると言った人たちがいた。ところが常識では逆だ。世界経済はさながらサバイバルの様相を呈し、失敗した国家はどんどんダークサイドに落ちていく。

    ≪新時代の「因果のストーリー」を≫

     国家はマネジメントの単位となり、国民の国家に対する依存度は増している。こんな時代に民族の「弱った腕を強くし、よろめく膝をしっかりする」(イザヤ書35−3)のは当たり前ではないか。ナショナリズムとか、右傾化の問題ではないのである。

    私がよく、「国家理性」という言葉を使うのもそのためだ。アングロ・サクソンという民族のすごいところは、「国益」ということで大多数がちゃんと動くことである。ユダヤという民族のたくましいところは、異民族が行きかうあんな廊下のような地形で、紀元前に追い出されたのに、もう一度戻ってきて、今度は「生存」という国家理性を持ったことである。

     そのハードがアメリカとイスラエルという国家であり、グローバル化したサバイバルの世界で、両者が緊密になっていくのは新時代の「因果のストーリー」である。

     では、日本の国家理性は何か。天皇陛下の存在から学んで「永続」が良いと思う。古代イスラエルにヒビという民族がいた。モーセとヨシュアの軍に負けて、井戸など水専門の奴隷にされてしまうが、ユダヤ教を受け入れて200年後、神の家も置かれる有力なギベオン人として再生した。歴史の「因果のストーリー」は「今」に教訓として使える。(筑波大学大学院教授・古田博司 ふるたひろし)

    posted by: samu | 産経正論 | 23:10 | - | - | - | - |
    ダボス会議で見た「政策競争」/竹中平蔵
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      毎年1月後半にスイスのダボスで、世界経済フォーラム年次総会が開かれる。今年のダボス会議はとりわけ話題の多い会議となった。会議では第4次産業革命という大きなチャンスに向けて、各国で経済強化のための政策競争が激化している姿が明らかになった。

       ≪各国首脳の強烈な時代認識≫

       今回は国家元首クラスが70カ国から参加した。史上最高である。先進7カ国(G7)のうち6カ国の首脳が出席したが、日本だけはトップが参加しなかった。国会の代表質問と日程が重なった、という事情は確かにあるが、政策を競い自国をPRする最大の機会に、日本だけが参加していないという点は残念だった。

       さて、会議ではどういう議論が行われたのか。印象的だったのはドイツのメルケル首相のスピーチだ。自らの世界観・歴史観を踏まえて、多国間主義・自由貿易の重要性を強調。これは明らかに、トランプ米大統領を意識したものであった。同時に、今日はビッグデータの競争の時代であるとして、国家と企業が実質一体化して巨大なデータベースを構築している中国とどう対峙(たいじ)するか、明確な問題意識を示した。

      確かに中国は積極的にキャッシュレス化を進め、ライドシェアを認め、この分野でアメリカを脅かすような企業を生みつつある。第4次産業革命の時代に国家資本主義とどう向き合うか、根本的な課題が問われている。

       フランスのマクロン大統領は、グローバル化や第4次産業革命の成果を全員が享受するためには教育・訓練の抜本的な改革が必要だと強調。新たな時代の先頭に立つために、教育費を国内総生産(GDP)の5%にすると述べた。同時に、競争力強化のためには法人減税が不可欠であり、現行の税率33%を22%に引き下げるとした。これもまた、トランプ減税(法人税率を35%から21%に引き下げ)を意識したものといえよう。

       イギリスのメイ首相は、残念ながらブレグジットについては全く言及しなかった。しかし第4次産業革命が大きく世界を変える、このために政策を強化するという強烈な時代認識において、他の欧州首脳と肩を並べていた。

       首相は、あえてライドシェアの“ウーバー”の名を挙げ、「たとえ懸念はあってもこれを拒否してはいけない」と、明快に述べた。既得権益グループの反対で身動きできない日本とは、大きな差異を感じた。

      ≪トランプ氏が力説した法人減税≫

       会議最終日にはトランプ大統領が登場した。グローバリゼーションの推進者であるダボス会議にトランプ氏が登場することに対し、ある通信社は次のような伝え方をしていた。

       「トランプ大統領の掲げるアメリカ第一主義を、これほど歓迎しない聴衆は想像し難い。だがトランプ氏が和解を求めてくるか、権力を見せつけにかかるかにかかわらず、大統領の参加自体が、トランプ氏を見くびっていたエリートに対するしっぺ返しとなろう」

       しかし実際のトランプ大統領のスピーチは、極めて静かなトーンに終始した。「アメリカ第一主義は孤立主義を意味しない。どの国のリーダーも自国民を大切にするが、それと同じこと」と述べ、終始その論調を通した。自らは「現実主義者」であることを訴えるのが主要な目的だったと思われる。

       またアメリカ国内の規制緩和や大型減税について時間を割き、「史上最大の減税で、アメリカは最もビジネスしやすい国になる」「アメリカに投資してほしい」と述べた。国内向けの訴えを世界のリーダーたちが集う場を利用して行った、という感もあった。

      いずれにせよ、第4次産業革命というチャンスに向けて、これを呼び込むための政策競争が世界的に激化している。今回のダボス会議は、日本に対して以下のような宿題を投げかけた。

       ≪日本はいっそうの改革推進を≫

       第1に、国際的なPRの場で存在感を示す(トップが出席できるようにする)ために、国会運営に当たってもそうした問題意識を取り込まねばならない。

       第2に、政策競争の新たな武器を整えることが必要だ。例えば今国会で規制緩和を前進させるレギュラトリー・サンドボックスの法案が出されるだろうが、その中身が法律事項の明示など結果を出せるものでなければならない。

       第3に、日本のみが乗り遅れないよう、思い切った減税措置が必要だ。アベノミクスにおいて、法人税実効税率は35%から30%弱まで低下したが、いまやアメリカやフランスなど各国はビジネス強化を急いでいる。政府は生産性革命やサプライサイド強化を訴えているが、小手先ではない大幅な法人減税が不可欠だ。法人減税のないサプライサイド強化策などあり得ない。

      そして第4に、デジタル時代の“究極インフラ”であるマイナンバー制度を抜本的に強化することが求められる。アベノミクスのこれまでの成果を評価しつつ、より強力な改革の推進が必要だ。(東洋大学教授・竹中平蔵 たけなか へいぞう)

      posted by: samu | 産経正論 | 09:27 | - | - | - | - |
      『神曲』中国篇を書いてはどうか/平川祐弘
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        「人生の道の半ばで」私はダンテを訳した。若い時に古典を訳すと一生つきあうことになる、といわれたが、事実そうなった。86歳の私が目下刊行中の著作集にもダンテ講義が3冊入る。地獄・煉獄・天国から成る『神曲』だが、私はもっぱらインフェルノだけを論じた。インフェルノとはイタリア語で地獄篇をさすが、ではこの世界文学の大古典『神曲』との関連で次世代の人に私は何を望むか。

        ≪劉少奇の屈辱を彷彿させる≫

         フィレンツェの政治家ダンテは1302年、公金費消の件で、2年間の国外追放と罰金刑に処せられた。しかしダンテはその処分を不当とし出頭命令に応じない。そのため永久追放、もしフィレンツェの司直の手に落ちた場合は死刑とされた。こうして党内の権力闘争に敗れたダンテは国外で流浪の暮らしを余儀なくされ、祖国についに戻らずラヴェンナで1321年、客死する。

         その間、貧に窮したが、『神曲』創作に精魂を傾けた。それは政治的敗者ダンテの文筆による代償行為で、憤怒に燃えた詩人は、恨みをはらすべく、政敵法王ボニファチオ8世を地獄の第8の谷の第3の濠に落とし火に焼かせた。

        この状況をわかりやすく言えば、中華人民共和国の国家主席・劉少奇は共産党内の権力闘争に敗れ、中南海でつるし上げられ、党籍永久剥奪の上、河南省開封へ追われた。劉は屈辱の念に燃えたが執筆の機会すらなく獄死した。

         『神曲』は、いわばそんな立場の人が国外へ逃れ、流竄(るざん)の境涯で書いた怨恨(えんこん)の文学であり、復讐(ふくしゅう)の詩である。しかもダンテは、驚くべきことに、彼自身が神になり代わり正邪の判決を下す。敵を地獄に落とし、味方を天国に置いた。

         中にはジェーノヴァの人で本人の「肉体はなお現世で生き身のままで歩いているが」「その魂ははや地獄の底で氷につか」っているブランカ・ドーリアなどもいる。

         そんな風に書かれてはたまらないと、当然、ダンテに対し世間は猛烈に反発した。だが痛快と思った人もまた数多くいた。『神曲』は回し読みされ大評判となった。

         それは「主席は地獄落ち」と聞かされたなら、「何を不敬な」と今の大陸の人は表では反発するだろうが、中国のインテリにはそのタブー破りを腹の中で面白く思う人がいるようなものだろう。

         

        ≪地獄に落とされる理由は蓄財≫

         歴代の法王や主席が地獄に落とされる判決理由は蓄財で、現世で財布に金をつめこんだから、因果応報で、地獄では財布状の穴に頭から詰め込まれて焼かれている。足の裏には左右ともに火がつき、外へ突き出した両脚をばたばたさせる。その有様をダンテは「脚でもって泣く」と評した。

         14世紀の西欧で一番開けた自由都市フィレンツェでは、ダンテの死後半世紀、議会は多数決でボッカッチョを講師に招き『神曲』講義を開催した。ダンテは作中で歴代の法王を次々と地獄に落とした、不逞(ふてい)きわまる詩人である。

         そんな反逆者に対しローマ法王庁は怒り、禁書とした。だがフィレンツェ市を皮切りに近代になり『神曲』が世界文学の最高峰と広く認められるに及んで、カトリックの学者も、今ではダンテを「キリスト教の最高峰の詩人」(il sommo poeta cristiano)と呼び、『神曲』は禁書どころか聖書の次の扱いである。

         では法王庁とダンテの関係は過去700年、一体いつどう変化したのか。その経緯を調べれば、西洋における言論自由の発達史としても、『神曲』評価の推移の歴史としても、興味尽きないに相違ない。それは私が調べずじまいに終わった主題だが、それと並んでアジア歴代の帝王や主席が詩人たちによってどう描かれたかも対比的に調べれば、これまた興味深い東洋における言論自由の発達史(未発達史?)となるに相違ない。

         

        ≪自由と正義の到来を祈りたい≫

         さらに第3の問題点。「人生の道の半ばで」「就在我們人生旅程的中途」の句で始まる『神曲』の中国訳はすでにある(『共産党宣言』イタリア語版序でエンゲルスがダンテにお墨付きを与えたおかげである)。

         誰か『神曲』中国篇を書く人はいないものか。天賦の才に恵まれた人の作なら、インフェルノ・チネーゼはインフェルノ・ジャポネーゼよりはるかに凄惨(せいさん)、また劇的、それだけ波乱に富む『神曲』中国篇となるだろう。『史記』をも凌(しの)ぐ『史記』を詩にしたような民族の魂をゆすぶる古典となるだろう。中国民族は才能に富む。必ずや名作となるにちがいない。

         おめおめと帰国することを潔しとせぬ流竄の人の手で、そんな真実の中国文学がいつか書かれ、非業の死を遂げた2600万余(「建国以来歴次政治運動史実報告」)の霊が声をあげて語り出し、自由と正義が行われる日の来ることを陰ながら祈る次第だ。

         物騒なことを言うと世間は危ぶむかもしれない。だがこの点にこそ『神曲』が含む問題性は存する。それというのは『神曲』は次々とタブーを破ることによって成立した一大傑作だからである。(東京大学名誉教授・平川祐弘 ひらかわすけひろ)

         

        posted by: samu | 産経正論 | 17:48 | - | - | - | - |
        久々に現れた米国大統領らしい人物…「価値の転換」訴えたトランプ氏 ・西尾幹二
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          トランプ米国大統領のアジア歴訪を主にテレビを通じてじっくり眺めた。私は子供の頃から大統領といえば米国大統領のことだと思っていた。そのイメージは大きい、強い、堂々としているなどで、象、戦艦、甲虫、大資本家、帝国主義者などである。

           フィリピンや韓国やトルコの代表も「大統領」の名で呼ばれているが、ピンと来ない。体が大きく、断固たる「意志」の表明者であるトランプ氏は、久々に現れた米国大統領らしい人物である。

           ≪自己自身のために生きる時代≫

           そこに「粗野」とか「軽率」とか「無遠慮」といった礼節の欠如を示す形容がついて回るのが、彼の特性とされるが、果たしてそうだろうか。彼の風貌をくりかえし見て、どこか憎めない、愛嬌(あいきょう)のあるところが常に感じられた。

           言葉の使い方も緻密で、外国での演説の全文を翻訳で読んだが、あれだけの分量を情熱を込めて語り切った能力は大変なものだと思った。

          白人比率が下がり続ける今の米国社会は、人種間対立が激しい。南北戦争における南軍の将の銅像が人種平等の過激派の暴徒によって引き倒される事件があった。中国の文化大革命を思い出させる歴史破壊が米国で起こったのだ。

           しかも米国でも日本でもメディアは歴史破壊を非難せず、暴徒に味方した。トランプ氏はそうではなかった。彼は白人至上主義者も過激派の暴徒もどちらもいけないと両方を叱責した。メディアはそれすらも許さなかった。白人至上主義者を一方的に非難することをトランプ氏に求め、それをしない彼を弾劾した。

           遠くから見ていた私は彼に同情し、米国社会の深い病理の深淵(しんえん)を覗(のぞ)き見た。トランプ氏は米国社会に、ひいては全世界に「価値の転換」を求めているのである。

           今度のアジア歴訪で彼は機会あるごとに「アメリカ・ファースト」を叫んだ。ベトナムでは米国を他国に利用させないとまで言った。米国に依存する弱小国の甘えをもうこれ以上認めない、という宣言である。実は、今の世界はあらゆる国々が自己自身のために生きることを、臆面もなく主張する時代に入っているのである。

          ≪感傷に満ちた世界を拒絶する≫

           米国も例外ではない、と彼は言いたいまでだ。トランプ氏の物言いの臆面のなさは、今直面している世界の現実の、歯に衣(きぬ)を着せない表現だと思えばよい。エゴティズム(自己愛)を認め合うことの方が、人道や人権の仮面をかぶったグローバリズムよりよほど風通しがよいと言いたいのだろう。

           彼はストレートで、非妥協的で、不寛容ですらある。米国社会に、ひいては全世界に「反革命」の狼煙(のろし)を上げているので、改革とか革命とか共生とか協調とか団結といった、人類が手を取り合う類いの感傷に満ちた世界にNO!を突きつけ、あらゆる偽善に逆襲しようとしている。

           今度のアジアの旅で笑ってしまった場面は、11月9日に習近平国家主席と対座して、28兆円の取引が公開された際の習氏の演説内容である。自国を世界に開放しすぎた結果の米国の引き締め策が「アメリカ・ファースト」だが、自国を世界にいっさい開放しない強権と専制の国である中国が、これからの開かれた国際社会の協調をリードするのは中国だとあえて言ったことである。

          これは笑い話であり、誰も信じまい。しかし28兆円に驚かされて本気にする愚かなメディアもあるかもしれない。28兆円の交換文書は契約書でも何でもなく、大まかな計画メモにすぎないのに。

           ≪日本には胆力備えた意志が必要≫

           国際会議における日本は残念ながら存在感が薄かった。各国が自己自身のために生きる意志を何のためらいもなくむき出しにし始めた時代であるのに、日本にはこの「意志」がない。

           極東の運命を決める会議で日本は20世紀前半までは主役であった。今はわずか東南アジア諸国連合(ASEAN)や豪印との友好によって米国に協力する−それは外交的には好感されているが−以外には力の発揮のしようがない。

           何よりも、安倍晋三首相は北朝鮮の脅威に対抗する政策において「日米は完全に一致」したと日米会談の直後に公言した。「一致」という言葉はこういう場面では言ってはならない禁句のはずだ。これは日本がどんなに理不尽なことを言われても、百パーセント米国の命令に従います、と今から誓約しているような言葉遣いである。

          安倍内閣は「人づくり革命」とか「働き方改革」とか革命や改革を安易に乱発し、左翼リベラル政治の臭いを漂わせている。一体どうなっているのだろう。

           米国と日本はいま、半島有事ばかりを気にしているが、それは尖閣の危機でもある。中国は尖閣を落とせば台湾を軍事的に包囲できる。台湾奪取の布石となるこの好機を習氏が見逃すはずはない。あらゆる点で「意志」を欠いている日本に求められているのは、必ずしも首相の雄弁ではなく、胆力であり、決断力である。(にしお かんじ)

          posted by: samu | 産経正論 | 18:01 | - | - | - | - |
          「加計」批判にみる危うさ 「証拠主義」無視など「礼節の欠如」が日本にも生じている/竹中平蔵
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            ≪深刻になった「礼節の欠如」≫

             アメリカのコミュニケーション会社ウェーバー・シャンドウィック社などが、面白い調査を行っている。キーワードはシビリティ(civility)、すなわち「節度、礼節」である。

             昨年の調査結果によると、アメリカ人の95%は civility に問題があると認識しており、74%がここ数年で civility が低下したことを指摘している。そして政策に関する問題で、全体の76%の人々が、 incivility(礼節の欠如)が有効な政策論議を妨害していると認識している。

             言うまでもなくこれは、トランプ政権の誕生と結びついている。トランプ流のツイッターでの一方的で扇動的な発言には、エビデンス(証拠)に基づき政策を真摯(しんし)に議論する姿勢が欠如している。

             また、相手の主張に耳を貸しつつ建設的な議論をするという基本的なマナー(礼節)が見られない。しかしこうした姿勢が、今の社会に不満を抱えている人々の共感を呼び、現体制に心情的に反発する社会的な流れを生み出した。

            考えてみれば、日本にも同様の傾向が存在する。その典型が、獣医学部新設をめぐる、一部野党やメディアの偏向した議論・報道だ。政策問題を論じる際に必要な“そもそも論”とは、獣医学部の新設を52年間も認めてこなかったこれまでの政策は正しいのか、なぜこのような現実が生まれたのか、どう是正すべきか、という問題を正面から論じることだ。

             しかし、こうした議論はほとんどなされないまま、決定のプロセスに首相官邸の圧力があったのではないか、というポイントばかりに焦点が当てられた。

            ≪強調されるスキャンダル的視点≫

             政策を決定するプロセスはもちろん重要だ。しかし、政策の“そもそも論”がないままスキャンダル的な視点のみが強調され、成熟した市民社会の常識(civility)を著しく欠くものとなった。

             欠如の最大のものは、「証拠主義」の無視だ。ある主体を批判し責任を求める場合、きちんとした証拠に基づくことが求められる。司法の場では証拠裁判主義、とも呼ばれる。

             しかし今回の批判の出発点となったのは、真偽のほどが明らかではない文部科学省内部のメモだった。これを政府側は「怪文書」と呼び、その後は文書が実在する(本物)かどうかで大騒ぎになった。しかしこの文書が実在するとしても、「本物の怪文書」と言わざるをえない。

            会議に参加した双方が合意した正規の議事録には証拠性があるが、一方的な利害を持つ主体が作成したメモは当然、バイアスがかかっており、証拠性に欠ける。今後は合意に基づいた議事録を作成し、それ以外は証拠性を認めないという常識的なルールを確立すべきだ。

             第2は「立証責任」の転嫁だ。責任を問う場合、その立証責任は問う側にある。何か疑わしいと責任を問われた側が、何もしていないことを自ら立証するのは不可能だ。にもかかわらず、首相や内閣府の関係者は、こうしたむちゃな答弁を強いられた。

             筆者が野党に期待するのは、元文部科学次官がこの問題に登場して政府批判を行ったとき、「あなた自身は学部新設を52年間行ってこなかったことの責任をどう感じているのか」を糺(ただ)すことだった。

             メディアに解明を期待するのは、最終的な決定に至る過程で、抵抗勢力がどのような圧力をかけたのか、という点だ。この点を無視して、一方的に内閣府などへの批判が行われた。しかも、文書が存在するのか、閣僚の発言は矛盾していないかなど論点がどんどんすり替わり、その都度、政府側が何かを隠蔽(いんぺい)しているかのような印象が与えられた。

            ≪政治社会への悪影響を認識せよ≫

             今回のもう一つの教訓として、告示による規制という大きな課題がある。獣医学部新設がかくも長期にわたって行われなかったのは、学部の設置そのものの規制ではなく、設置したいという申請を認めない、という規制があったからだ。異様な措置だといえる。

             しかもこれが、国会で審議される法律ではなく、告示という、いわば一片の通達によって実施されてきた。気がつけば、こうした告示による規制は、極めて多岐にわたる。そしてそれらが「岩盤規制」の重要な部分をなしている。

             しばしば話題になる混合診療の規制や遠隔教育の規制も、告示に基づいている。医学部・歯学部新設の規制も同様だ。告示という手法そのものを全面的に見直すことが必要ではないか。

             冒頭の civility 調査に参加したパウエル・テイト社のジェンキンス氏は、次のように述べている。「アメリカ国民は今や、礼節欠如の高まりが私たちの政治プロセスを傷つけ政府の機能を損ねたという、明確な認識を持っている」

             加計学園批判の最大の教訓は、 civility の欠如が政策論議を歪(ゆが)めるという現象が、日本でも生じていることだ。それが政治や社会に悪影響を及ぼすことに強い問題意識を持たねばならない。(東洋大学教授・竹中平蔵 たけなかへいぞう)

            posted by: samu | 産経正論 | 09:30 | - | - | - | - |
            今の日本にもっとも欠けている「考える」ことを取り戻すには/長谷川三千子
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              「日本人は学ぶよりも考えよう」−7月26日付本欄の古田博司氏のこの提言に深い共感を覚えたのは、私一人ではなかったでしょう。今の日本にもっとも欠けているものを一つだけ挙げるとすれば、それは「考える」ということだ、と言って間違いありません。

               ≪感情論ばかり幅を利かせる昨今≫

               古田氏がご指摘のとおり、「考える」ことが専門の学者の世界においてすら「学びて思わざればすなわち罔(くら)し」と言いたくなるような論文に、お目にかかります。

               他方で「思いて学ばざればすなわち殆(あやう)し」といった論も、世の中にはたくさん出回っている。学ぶことと考えることとの調和を保って知を深めるというのは、なかなか難しいことであって、だからこそ孔子もこのような言葉を残したのだと思われます。

               ただし、本来学ぶことと考えることとは相反するものではありません。どちらも、さまざまのものごとを事柄そのものに即して見極めるということを基本としている。ですから、その基本を忘れない限り、両者は互いにうまく補いあってゆくことができるのです。

              ところが、昨今われわれが目にするのは、肝心の事柄そのものを問うことがすっかり忘れ去られ、学ぶことも考えることも放棄した感情論ばかりが幅を利かせている、といった世の中のありさまです。こうした状況を生み出しているのはいったい何なのか。いま典型的な一例をふり返って、その本質を探ってみましょう。

               ≪「日本死ね」の根底にある甘え≫

               1年半ほど前に「保育園落ちた日本死ね!」という若い母親のブログの言葉が大評判になったことがありました。

               その年の流行語大賞も受賞し、選考委員の俵万智さんは次のように述べています−「『死ね』が、いい言葉だなんて私も思わない。でも、その毒が、ハチの一刺しのように効いて、待機児童問題の深刻さを投げかけた。世の中を動かした。そこには言葉の力がありました」。

               ここで注目したいのは、この「言葉の力」という表現です。

               実は、学ぶにせよ考えるにせよ、重要なのは「言葉の力」なのです。十分に考え抜かれ、練り上げられた言葉は、事柄の本質をずばりと人に伝える力をもっている。それを聞き、それを読む人に考えさせる力をもっている。そうした「言葉の力」を軸として、人類は学び考え、知を深めてきたのです。

               もしもこの言葉に本物の「言葉の力」があり、それが流行語大賞を受賞したのなら、こんな素晴らしいことはありません。

              では、その「言葉の力」はどこに発しているというのでしょうか。力の源は明らかに「死ね」−それも「日本死ね」のうちにあります。これがただの「保育園落ちた」だけだったとしたら、流行語大賞どころか話題にもならず「ウチもだよ。悔しいねえ」といった返信があるだけだったでしょう。

               この「日本死ね」について、俵さんは「その毒が、ハチの一刺しのように効い」たと言うのですが、実はここには何の毒もありません。むしろ、いまの日本で一番安心して「死ね」と言える相手が「日本」なのです。うっかりして相手に「死ね」と言うと、自分の方が殺されたり、糾弾を受けたりもしますが、「日本」が相手ならその心配はない。また、いくら「死ね」と言っても本当に日本が死ぬはずはない、とご当人は思っているに違いありません。

               こうした二重三重の安心感にくるまれて自分の憤懣(ふんまん)をぶつけているのが、この「日本死ね」なのです。こんなものは「言葉の力」でもなんでもありません。

               しかもこのような感情的な罵声は、問題を解決するための実質的な議論への道をふさいでしまいます。保育園増設のためには、用地の取得、保育士の養成、保育の質の確保など、難しい問題がたくさんあるのに、そのことが全部忘れ去られて、叫びさえすれば何でも解決してもらえるような錯覚がはびこる。そしてその中で、本当に深刻な問題が見逃されてしまうのです。

              ≪聴力を研ぎ視力をみがこう≫

               「何が少子化だよクソ」という一言がこの母親のブログの中にあります。実はこれこそが「待機児童問題」よりずっと深刻な問題なのです。もしも今のまま少子化が続くと、3200年には日本の人口は限りなくゼロに近づきます。まだある程度の数の若い女性がいるうちに最大限の手を打たないと、本当に日本は死んでしまう。

               ところが、その危機をはね返す主役であるはずの女性が、主役であることの自覚も誇りも持てないまま、ただ報われぬという不満を抱えて生きている−一見すると甘ったれた罵声としか見えないブログの底に、そういう無意識の悲鳴が潜んでいます。この言葉に喝采する人も、ただ反発する人も、その悲鳴を聞き逃してしまう。

               「考える」ことの復権は、そうした聴力を研ぎすまし、事柄そのものを見る視力を養うところから始めてゆくべきでしょう。(埼玉大学名誉教授・長谷川三千子 はせがわ みちこ)

              posted by: samu | 産経正論 | 18:19 | - | - | - | - |
              安倍政権に提言する「第4の矢」=非課税国債はどうだろう /加地伸行
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                ≪左筋メディアがあおるイメージ≫

                 ここ半年の国会は森友・加計の学校認可問題などが中心であったが、国家的課題からすれば、小事である。にもかかわらず、なぜメディアは騒ぐのか。

                 老生、2点の背景を感じる。

                 まず第1点。安倍晋三首相はこの秋から憲法改正へと進んでいく。それを粉砕するのが、朝日新聞や毎日新聞など左筋の目的である。報道の客観性だの公正性だの、そんなものは始めからない。

                 そこで戦略。秋に至るまでの間、安倍内閣の〈悪(あ)しきイメージ〉を演出する。その三文芝居に適当な役者も揃(そろ)った。厚顔な籠池某、〈正義の味方〉面(づら)の前文科省次官の前川某と。彼らは安倍政権の犠牲者という演技をし続ける。

                 もちろん場外応援団もいる。例えば東京都議選の最終日、秋葉原での安倍首相の街頭演説に対して罵声を浴びせての「アベヤメロ」コールなど、左筋が昔からよく使う術(て)である。左筋メディアは、組織的動員に依(よ)る意図的行為を「自然発生的」と大嘘をつきつき、〈安倍は黒〉のイメージ作りを続けることであろう。止めることはできない。

                第2点。人々が抱いた〈安倍政権への期待感〉が、現在、いささか期待外れを感じさせている。安倍政権成立直後に放った〈第1の矢、第2の矢〉は良かった。人々は明るさを感じ、支持した。しかし〈第3の矢〉は、期待感という点において効果はなかった。なぜなら、狙いは国家的規模の経済政策であり時間も必要としたため、一般人の〈身近な経済〉への直接的恩恵がすぐには届かなかった。

                 そのため、安倍政権への期待外れのようなものを感じさせていた。その雰囲気に逸速(いちはや)く感づいたのがメディアで、その波に乗った。メディアの勘の良さである。

                ≪〈華〉を持たせることが大事≫

                 しかし政治は国民のためにある。当たり前のこと。とすれば、安倍政権は、ここで必死になって政策の充実を図るべきである。

                 どうするか。顧(かえり)みると、第1の矢、第2の矢に比べて、第3の矢には〈華(はな)〉がなかった。ならば、〈華〉のある〈第4の矢〉を放つべきである。しかし、そのような新政策が有るのか。

                 有る。老生がそれを論じたい。と述べると、人は嗤(わら)うことであろう。老生は中国古典学研究者。早く言えば、漢文屋でしかないし、政策を生む政治学・経済学等々とは無縁。さりながら、学はなくとも〈愕(がく)〉はある。「愕」とは「驚く」に加えて「直言する」の意。

                それに「愚者の一得」とも言う。中国は古代、小人は相手にしなかった「韓信の股くぐり」説話がある韓信に、参謀が献言した。「知者も千慮に必ず一失あり。愚者も千慮に必ず一得あり」(『史記』淮陰侯(わいいんこう)列伝)と。ここである。老生、これまであっと驚く政策7件を提言してきたが、政治家のだれ一人として反応しなかった。失望したが、今回、安倍政権ひいてはわが国のためという気持ちでその1つを提案する。

                 新政策を行うには、予算編成すなわち金銭が必要である。正統的には税収を上げて得るところだが、なかなか困難である。かと言って国債を発行すると、それは借金であるから、利子を付けなければならないし、元金の返済に苦しみ続ける。これが今の状況だ。

                ≪「宝国債」の発行はどうだろう≫

                 ならば発想を転換して、全く新しい概念の国債(宝国債と命名しておく)を発行してはどうか。

                 こうする。(1)返済は100年後で、その間、利子はなし。(2)宝国債の額面は1万円として通貨としても使えることとする。製作方法は現行の1万円札に黄金色の線を1本いれて、現行の1万円札と区別しておく。(3)宝国債を求めたい人は、銀行に宝国債口座を開き、そこへ買いたい分の日銀紙幣を入金することで、同額分の国債を買ったこととなる。同口座から出金すると、黄金1本線が入った宝国債紙幣が出てくる。(4)相続のとき、非課税すなわち無税とする。これが最大の特色だ。

                資産家は相続税が恐怖である。もし相続時に非課税国債があれば必ず買う。しかもその後、まず出金しない。これまで隠してきた現金の置き場所が、安全な国債口座に移っただけのことだから。すなわち出金は少なく、出回ってインフレになることはないはずだ。

                 そして100年。その間、毎日、日本銀行に通貨が帰ってくるが、宝国債を選び出して焼却し続けるとおそらく消えてなくなるので、その元金の返済は不用だ。

                 これは決して資産家優遇ではない。彼らの資産を守りつつ無理なくはき出させ、現れた膨大な金額(おそらく毎年5兆円前後)を、まじめに働いている所得の低い人たちに投ずるのだ。例えば東京の高い家賃への補助とか優秀な学生への奨学金とかといったように。

                 こういう夢ある政策を実現することこそ、人々が求める政治だと気づいてほしい。孔子でさえ、気づかなかったことに気づかせてくれた弟子に感謝している。「予(孔子)を起(おこ)す(啓発する)者」(『論語』八●(はちいつ)篇)と。(大阪大学名誉教授・加地伸行 かじのぶゆき)

                posted by: samu | 産経正論 | 22:13 | - | - | - | - |
                「メディア不信」広がるだけ 閉会中審査の加戸守行前愛媛県知事めぐる朝日と東京の姿勢
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                  昨年の米大統領選をめぐる報道で注目を集めた「フェイクニュース(偽記事)」。世界的な「メディア不信」の原因になっているが、日本国内でも学校法人「加計学園」(岡山市)の獣医学部新設計画をめぐる問題が「メディア不信」に拍車をかけている。今月10日に行われた参院の閉会中審査に参考人として出席した加戸守行前愛媛県知事(82)の発言。インターネットを中心に「報道しない自由」の問題が物議を醸した。

                   「行政が歪められた」と主張する前川喜平・前文部科学事務次官(62)に対し、加戸氏は「強烈な岩盤に穴が開けられ、歪められた行政が正された」と真っ向から反論した。これまで前川氏の発言を頼りに政権批判を繰り広げてきた朝日新聞などのメディアが加戸氏の発言を取り上げないことは想像がついたが、朝日と並んで加計問題追及の急先鋒となっている東京新聞は一味違った。

                   東京の15日付朝刊「こちら特報部」は加戸氏を取り上げた。「加戸氏は加計問題のキーパーソンなのか」という切り口で、閉会中審査での発言や経歴などを紹介した。

                  しかし、記事を読み進めていくと、文部科学省出身で京都造形芸術大学教授の寺脇研氏や、ジャーナリストの青木理氏ら識者の発言として「加計学園の本質とは無関係だ」「『愛媛県にとっては12年間加計ありき』と開き直るような加戸氏の発言はもっと問題視されていい」と厳しい否定的な意見を並べた。

                   記事を総括する「デスクメモ」は、加戸氏がマフラーを着けて閉会中審査に臨んだことに触れ、今治産のタオルマフラーは吸水性が高いことを挙げた上で「地元愛の強さは感じた」と本質とかけ離れたコメントを記した。

                   また、菅義偉官房長官の記者会見で注目を浴びた東京新聞社会部の望月衣塑子記者は15日の自身のツイッターで、加戸氏が国家戦略特区ワーキンググループで提示した資料について「加戸氏は元文科省の役人で獣医学の専門家でない。資料もエボラ出血熱(MERS)を火星(MARS)と書き間違えている」と指摘した。

                   しかし、この書き込みに対し、資料の引用先を誤った上に、MERSはエボラ出血熱ではなく「中東呼吸器症候群」(Middle East Respiratory Syndrome)を指す略語との指摘がネット上で相次ぎ、炎上状態となった。望月記者は翌日のツイッターで「ご指摘ありがとうございます。失礼しました」と誤記を認めたが、その文面からは記者会見で見せる歯切れの良さは見られなかった。

                  「こちら特報部」の記事と望月記者のツイッターのいずれも「加戸氏の証言は信じるに足らないものだ」と読者にすり込ませようとした。

                   一方、朝日新聞は「報道しない自由」に徹しているかのような報道を続けている。朝日の15日付朝刊は「『加計』問題 晴れぬ疑念」との見出しで、丸々1ページを使ってこれまでの獣医学部新設をめぐる経緯や問題点などを並べた記事を掲載した。

                   しかし、10日の閉会中審査の前川氏の発言は何度も触れているのに対し、同じ場で愛媛県における獣医学部新設の必要性を訴えた加戸氏については発言どころか、名前すら記事にはなかった。

                   朝日は、その約1週間後の23日には朝刊2面で24、25日に行われる衆参予算委員会の閉会中審査の特集記事を掲載した。ここでも1ページを使って閉会中審査の主な論点を整理して紹介しているが、加戸氏についての記述は一切なかった。

                   加計問題を厳しく追及する朝日の紙面に、前愛媛県知事として獣医学部誘致に尽力した当事者である加戸氏の存在がなかったかのように仕上げられた記事は、違和感しかなかった。

                  東京や朝日の報道について、日大法学部の岩井奉信(ともあき)教授(政治学)は「政権批判をしている読者には、勢いづく材料になる」と指摘。また、「多様化しているメディアの中では、いろんな意見や書き方があっていい」としながらも、「新聞が宅配文化の日本では1社しか読まない人がほとんど。国会に参考人として呼ばれるのは意味があるのに、加戸氏の証言を取り上げないことは公平中立の報道の立場からはいかがなものか」と疑問を呈した。

                   「行政が歪められた」という前川氏の発言が大きく取り上げられている一連の加計問題。新聞、雑誌メディアには、それぞれの「色」があってもよいだろう。しかし、自社に都合の悪い証言をした人についておとしめるような記事を掲載したり、無視するような扱いをし、問題を「歪めている」のはメディアの方ではないか。(政治部 今仲信博)

                  posted by: samu | 産経正論 | 10:57 | - | - | - | - |
                  現行憲法はわが国にとっての自主憲法ではない/・佐瀬昌盛
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                    『読売新聞』が5月3日(憲法記念日)に憲法問題で安倍晋三首相インタビュー記事を掲げると、わが国のメディアに騒ぎが持ち上がった。首相は3年後の2020年までには憲法改正を実現し、同年中にはその施行を目指す方針を表明したからである。

                     安倍首相は従来、ほとんどタブー視されてきた憲法9条問題に踏み込み、しかも1項、2項を残したまま、新しく別個に自衛隊の存在を何らかの形で規定する方針である旨を語った。

                    ≪「断腸の決断」には同感する≫

                     5月18日付の『朝日新聞』では、安倍首相の9条新3項導入意向について編集委員が「それで(自衛隊を)統制できるなら私は※賛成だ。必要最小限の武力で専守防衛に専念する組織と書けばよい。憲法で位置づけるのは、自衛隊の行動にフリーハンドを与えるのではなく、政治によって縛ることだ。しかし、本当に遵守できるのか、※疑問がある」(※引用者)と書いている。

                     これはいったい賛成論なのか疑問論なのか。先の※箇所は仮定の上での「賛成」であり、後の※箇所は結論としての「疑問」らしいから、結局、この記事を書いた記者は安倍首相の9条1、2項に新3項を加える考えに疑問を感じているのだろう。しかし、このような珍文が登場したこと自体、安倍改憲構想に軍配が上がったことを物語るのではあるまいか。

                    他方、『読売』では5月30日に斎藤隆・元統合幕僚長が登場。9条3項案について、安倍首相のこの提案は「まずは不毛な自衛隊の『違憲』論に終止符を打つという判断ではないか。『理想を追い求め、何もなし得ないなら意味がない』という断腸の決断だったと推測している」と書いている。同感である。

                    ≪「書き換え」こそが首相の本心≫

                     いずれにせよ問題は現行憲法9条2項の今後の取り扱いにある。安倍首相は−本心はどうかは怪しいが−同項維持論を唱えている。これに疑問を唱える与党議員は少なくない。それはそうだろう。

                     自民党が平成24年4月に発表した日本国憲法改正草案では、現行憲法9条1項に若干、修正が加えられた新1項が設けられ、新2項は「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」となり、現行憲法2項の交戦権否定は消滅している。そのうえで「第9条の2」が加わり、そこでは5項にわたって「国防軍」に関する規定が設けられることになっていた。

                     ここで再度、斎藤隆氏の発言に戻る。同氏は「自衛隊は『陸海空軍』とは切り離された特殊な存在であり続ける可能性はある。しかし、根拠規定が明記され、合憲と整理された後に、軍隊とは何か、自衛隊とどう違うのかなどのかみ合った議論につながっていくのではないか」と語っている。そうだろうか。

                    これまでの習性に照らして、国民は「のど元過ぎれば熱さ忘れる」にも似て、現行9条2項残存プラス新3項追加型と、現行2項書き換え型のいずれが望ましいかといった議論を忘れてしまうのではないか。

                     そこへいくと高村正彦自民党副総裁の指摘はおもしろい。『産経新聞』6月6日付で同副総裁は語っている。「総裁は本当は戦力不保持の9条2項を削除した方がよいと考えているんでしょう。総裁に聞いていないが、聞かなければ分からないようでは副総裁は務まらない」

                     私もまた、安倍首相の本心は現行9条2項そのものの書き換えにあるのだろうと思う。なぜ安倍首相はその本心を隠そうとするのだろうか。推測するに、安倍首相は心中ひそかに、戦後最長の政権維持記録を持つ佐藤栄作首相以上の在任記録という美酒が飲める日を夢見ているのかもしれない。が、それは間違っている。

                    ≪9条2項は改変されるべきだ≫

                     安倍首相は祖父・岸信介首相を範とすべきだろう。佐藤首相について人々が思い浮かべるのは、その最長期政権と沖縄返還、そして非核三原則の提供ぐらいであろう。が、憲法改正問題では沈黙を守った。他方、岸首相は現行日米安保条約の生みの親であるうえ、退任後は「自主憲法制定国民会議」の初代会長に就任、今日の同会議の礎を築いた。

                    最後に現行憲法9条2項について私見を述べる。同項は改変されるべきである。それを私は田久保忠衛、西修、大原康男、百地章ら諸氏とともに『国民の憲法』要綱として発表した(産経新聞社、平成25年)。そこでは9条に代わって16条を設け、こう規定した。

                     国の独立と安全を守り、国民を保護するとともに、国際平和に寄与するため、軍を保持する。

                     2 軍の最高指揮権は、内閣総理大臣が行使する。軍に対する政治の優位は確保されなければならない。

                     3 軍の構成および編制は、法律でこれを定める。

                     現行9条1、2項はともに跡形もない。これが正解だと思う。現行の日本国憲法はわが国にとっての自主憲法ではないからだ。(防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛 させまさもり)

                    posted by: samu | 産経正論 | 17:41 | - | - | - | - |
                    「正道」示した渡部昇一氏を悼む/平川祐弘
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                      「日本が人民民主主義国にならなかったことは僕らの生涯の幸福ですね」「近隣諸国が崩壊し、何十万の難民が舟で日本へ逃げてきたらどうします」「大陸へ強制送還するより仕方がない」。今春そんなテレビ対談をした。それが渡部昇一氏との永の別れとなった。

                      ≪武骨なオピニオン・リーダーに≫

                       氏は極貧の学生生活を送った人だが、正直で明るい。86歳になっても書生の初々しさがあった。

                       大学生だった昭和20年代、朝日新聞や岩波書店にリードされた論壇は資本主義は邪道で社会主義が正道であると説いていた。共産党の野坂参三は皇居前広場を埋め尽くしたデモ隊に向かい、「第一次大戦のあとソ連が生まれ、人類の6分の1が社会主義になった。第二次大戦のあと人民中国が生まれ、人類の3分の1が社会主義になった。この次の革命の際は…」とアジった。

                       あのころ講和をめぐる論戦が『文芸春秋』誌上で交わされた。全面講和論とはソ連圏諸国とも講和せよ、という一見理想主義的、その実は容共左翼の平和主義的主張で、私は南原繁東大総長のそんな言い分が正しかろうと勝手に思い込んでいた。それに対し米国中心の自由陣営との講和を優先する吉田茂首相を支持したのが慶應の小泉信三塾長で、朝鮮半島で激戦が続き米ソの話し合いがつかぬ以上、全面講和の機会を待つことは日本がこのまま独立できずにいることだ。それでよいか、という。その小泉氏に上智の学生だった渡部氏は賛意の手紙を書いた。すると小泉氏から返事が来たという。

                      この話は示唆的だ。戦後、昭和30年代末までは小泉氏こそがわが国の一代の師表(しひょう)だったが、昭和40年代末からは武骨な渡部昇一氏が、それと知らぬ間に日本のオピニオン・リーダーとして後を継いだ。渡部氏ほどの偉者(えらもの)は東大にはいなかったと私は観察している。

                       和漢洋の読書量で氏に及ぶ人は地球上に見いだし難かったのではないか−この素直な愛国の大学者は、当たり前のことを言うことで正道を示した。日本の文部省が教科書検定で華北に対する「侵略」を「進出」に改めさせた、と新聞テレビは騒いだが、それが誤報で「万犬虚にほえた」と指摘したなどその一例である。

                      ≪神代から続く皇統の誇りを説く≫

                       そんな真っすぐな言論人だったから『朝日新聞』の狙い撃ちに遭った。新聞が扇動し過激派が連日、上智大の教室に押し寄せる。だがたじろがない。その前に竹山道雄がやはり『朝日』の狙い撃ちに遭ったが、そんなアカ新聞まがいの意図的な人身攻撃をするうちに『朝日』は信用を落とした。

                       英語史家として傑出したが、渡部氏が大学者たる所以(ゆえん)は古今東西の知識を存分に生かしたことだ。頭脳は明敏で溌溂(はつらつ)と回転した。判断のバランスも概(おおむ)ねよくとれていた。氏が学問的新天地を開いたのはキリスト教化される以前の西洋と比べることで日本の宗教文化の特質を理解したことにある。その観点から古代史を説くから氏の比較文化史は面白い。「神代から続く皇統」の「言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国」である日本を論じて秀逸だ。

                      ところが西洋には言語を意思伝達の道具としか考えない一派があり、米国の学術誌が渡部氏を非難し、私が氏のために英文で弁じたことがある。渡部氏は皇統百二十五代が日本の誇りである所以を説く。その男系の歴史を踏まえ、拙速な女性天皇容認論を排する。雅子妃の「適応障害」でも皇室の本質から論点を指摘する。その時はこれぞ忠君愛国の士と感じた。

                      ≪冷笑するような御厨氏の記述≫

                       今回の天皇の公務軽減の有識者会議に氏は病身をおし松葉づえをついて出席、摂政を置かれることを提言した。今の天皇様はもう十分外回りのおつとめは果たされた。これからはご在位のまままず祭事(まつりごと)のおつとめをお果たしください、というのが私どもの意見である。杉浦重剛が若き日の昭和天皇に講義した『倫理御進講草案』にも「神事を先にし、他事を後にす」とある。この優先順位の提言が間違いとは思えない。この主張のインパクトが大きかったのは筋が通っていたからではないか。

                       有識者会議の論点は当初は「譲位か、ご在位のままお休みいただくか」であった。それが整理の過程で「譲位は一代限りか、恒久的にすべきか」に替わり、ある意味で予想通りの、特例法の制定により今回決着をみた。すると御厨貴氏が『文芸春秋』7月号に退位に反対した渡部昇一氏、櫻井よしこ氏、平川を冷笑するような「『天皇退位』有識者会議の内実」を書いた。

                      私に関しての記述はおぼえのない発言が書いてある。速記録もあるのだから確認できるはずだ。座長代理ともあろう人がこんな失礼なオーラル・ストーリーを拵(こしら)えるのか。だが同じ調子で渡部氏も悪く書かれたのだとするなら故人に気の毒だ。

                       陛下のご意向なるものが新聞の1面に出る。翌日、宮内庁が否定するがテレビでは田原総一朗氏がとりあげる。こんなリークの繰り返しが続くマスコミ文化に、わが皇室も侵されてゆくのだろうか。(東京大学名誉教授・平川祐弘 ひらかわすけひろ)

                      posted by: samu | 産経正論 | 17:21 | - | - | - | - |